12
ローは今のところ、パサモンテのベッドを占領する形で眠っている。体の大きいパサモンテ仕様のベッドは一人で寝るのも広くて快適だ。ロシナンテとの二人旅の時は大抵が野宿だったのでこういったベッドでは泥のようにリラックスして眠れる。
そのベッドの主といえば、ローが病で弱っている体であるという事と、いくら恩人に似てるとはいえそれとは別人であるという理由から大きなソファで眠っている。ローとしてはまだ心を許していない人間と同じ寝床で寝るなんて言語道断な訳だ。しかしそれならその男の立場上普通より良質であるソファでローが寝て、男がベッドで寝れば体のサイズ的にもよろしいのでは、と思っているのだが生憎まだ気を許していない(ここはローにとって大変重要なところである)相手にそのような意見をするなど考えられないので自分の体には不釣り合いな大きなベッドの真ん中に甘んじている。
しかし、そんな寝心地の良いベッドで、不意に目が覚めた。航海しているとは思えないほど静かな夜だった。
夢見が悪かった訳でも子供らしく尿意を感じた訳でもない。ただなんとなく、誰かに呼ばれたような気がして目を開けた。波の音も聴こえず、ただ揺りかごのように揺れていなければここが船の上だと忘れてしまいそうだ。
水が飲みたい。ふとそう思った。コップはローでも届く棚の中にプラスチック製のものがある。くあ、とあくびをひとつ零してゆっくりと上体を起こした。
外からはぼんやりと月明かりが差し込んでいる。月が真上に上がっているから恐らく深夜だろう。空が赤らんでいる気配もないからもしかしたら夜が明けるのはだいぶ先の事のはずだ。
布団を捲って床に足をつけようとしても届かないほどベッドは高い。しかし、ちょうどローが乗り降りするのに便利な高さの台が置いてあることは知っていた。それはパサモンテが、抱き上げてベッドに乗せられることを良しとしないローのために置いたものだった。ひやり、台についた爪先が冷たさを感じる。
「…っ!」
あまりの冷たさに声を上げそうになった。ノースブルーの夜は冷える。しかし身体を震わせるだけに何とか留めてローは台に両足をついて軽やかにベッドから降りた。そうして視線を正面に向ければ、今しがた降りたベッドを囲むガラスのドームのようなものが目に入った。なんだこれは、そう首を傾げてそれに触れようと手を伸ばせば、指先はなんの感覚も捉えずにそのドームを突き抜けた。そこで、は、と目を見開く。
見覚えがある。これは悪魔の実の能力だ。
「……サイレント…?」
自分の、命の恩人のそれに、よく似ている。は、と浅く息を吐き出せば、それは白く色付いて消えた。ひた、ひた、と裸足でそのドーム上の能力の外に出る。瞬間に耳に蘇る、外の音。
ざざん、ざざん。
揺れに合わせて海が鳴る。海とはこんなにも大きな音を立てる水溜りだったかと、ローは改めて思った。
「…あいつの、能力か…」
ソファからはみ出る長い足を視界に映して、ここ最近快眠だった事を思い出す。安眠において右に出る者はいない、と言っていたコラソンといい勝負なのではないだろうか。そう結論付けて、つかつか、とパサモンテに歩み寄った。
「…っ、ぐ…」
呻き声、がする。ローは思わず冷たい床を踏みしめる足を止めて息を殺してパサモンテの様子を伺った。ソファで身動ぎをする大きな男の表情は見えない。
「…ろ、し…」
また、苦しみ喘ぐような声がパサモンテの口から漏れた。明らかに知った人の名を呼んだその声に、身体が強張る。
あの人の、夢を見てるのか。
なのに何故、こんなに苦しそうにしているのかがローには分からない。あの人は、コラソンは優しくて、夢の中でもいつも笑ってて、ドジをして、それすらも笑い飛ばして、感激屋だからたまに泣いて、そんな、優しい人のはずなのに。う、とまた吐息が漏れて、パサモンテは柔かいソファの生地に爪を立てた。
「おれ、の、せい…」
喘ぐようなその寝言を聞いて、ローの身体は水を浴びたように冷えた。
嘘吐き、と罵った。コラソンを救うことができなかったパサモンテを。救うと言ったのに。あの日ローを抱き上げた両腕は、雪にまみれて冷たくて埃がついてくすんでいた。本当なら雪に溶け込む真っ白な正義のコートなのに。それでも亡き人との約束を守ってローという小さい少年を救った。否、元からそれだけだったのだ。
コラソンは、電話で一度も自分を救ってくれとは言わなかった。パサモンテが差し出した救いの手も払い除けて、ローを、ローだけを確実に助けるために。
「…お前のせいじゃない」
気付けばローの口から、そんな言葉が転げ落ちていた。そうだ、とその小さい腑に落ちたのは、知らない間に拒絶していた事実だった。
ロシナンテが、コラソンが死んだのはローを助けようとドフラミンゴを裏切ったからだ。そうしてコラソンを直接的に殺したのはドフラミンゴで、そうなるような原因を作って間接的に殺したのは。
「…おれの、せいだ」
口にしたその言葉は、夜の北の海の空気よりも鋭く、ローの胸を刺した。視線は、苦しげに歪むパサモンテの顔から離れない。
あの人も、こんなふうに苦しんで死んだのだろうか。
「……っ」
冷たい空気を引きつる喉で吸い込んで弾かれたようにベッドに戻る。水を飲むのはやめた。この顔が悲痛に歪んでいるのなんて、今のローには見るに耐えない。安眠を約束された範囲の中に戻れば波の音も男の苦しむ声も聞こえなくなった。聞こえなくなった、筈だ。
「…ぅ、ひっ…」
だから、誰かが啜り泣く嗚咽など、聞こえる筈もないのだ。うぐ、と詰まる呼吸を無視して、ローは上質な布団に隠れるように潜り込んだ。
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