企画


「パパラチアを」

そう囁くように秘め事を唇に乗せて、僕は目を細めた。傍らで嘆くもう一人を宥めるようにそっと添えた手に触れた、その背は、当然だがひんやりと冷たい。

「月に連れて行くように頼んだのは、僕だ」

月光が射し込む窓辺に、うずくまる一人と、寄り添う一人。樹液のような甘やかなルチルクォーツの茶色が、白い石英の床に同じ色の影を落とした。放心状態のルチルからの返事はない。

末っ子が、否、モルガナイトとゴーシェナイトが新しくその下にうまれたので、もうその表現は適さない。一度月に連れ去られてそのままの形で戻ったフォスフォフィライトに「共に月へ」と差し出された手を、僕は取らなかった。代わりにと推したのが、ひどく聡明で強い眼差しを、長く瞼の裏に仕舞い込んでいる同族の兄。

「インクルージョンのない宝石を作る技術を見たと言ったね?にいさんを"閉じる"のにきっと役立つだろう」

そういけしゃあしゃあと「運ぶのを手伝おうか」とまで言った僕に、フォスは目を丸くした。よもや快諾されるとは思っていなかったのだろう。確かに、月に行くだなんて途方もない話だ。一度帰ってきているフォスがいるとはいえ、攫われて帰ってきていない仲間の数の方が圧倒的に多い。

「い、いいの…?」

戸惑いを通り越して困惑するフォス。そういえばこの子とはあまりちゃんと話す機会がなかった。無邪気な弟が、毎日天気の記録なんかを取っている変わり者に惹かれる余地など確かにないだろう。彼の頭に着いたラピスラズリとは打ち解けてはいたのだけれど、自我ははっきりとフォスらしい。彼のインクルージョンの器の大きさも目を見張るものがある。

「なぜ?にいさんが目覚めるのならそれ以上の事はない」

善は急げと、パパラチアの横たわる箱型の寝台に手を添える。固唾を呑んだフォスが一つ頷いて僕に問うた。

「ありがとう、でも…一緒に来なくていいの?」

「月にも空はあるのかな?」

じ、とまっすぐに見詰めてきた瑠璃色の瞳にそう返す。断り文句に苦笑したフォスが、僕に倣って寝台に合金を這わせた。

ほんとうだよ。にいさんには動いていてほしい。話したいことがいっぱいある。

嘘だよ。何も話したくない。にいさんは目が覚めるとルチルのことばかりだ。

ルチルがあんなに憎らしかった。彼がにいさんと組んだ時から、もうずっと嫌だった。けれどにいさんも楽しそうだったし、眠る時間が長くなったにいさんのために日夜宝石を組み替え続けるルチルに、僕は何も言えなかった。おまえも同じことをしてみろと詰られたら、太刀打ちできる気がしなかった。皆の目を盗んで自分の足を切り落としてにいさんの穴の形に削って埋めてみても、応えてくれることはなかった。因みにバレて先生の雷が落ちた。

そばにいるからいけない。そばにいるからこんなにも、どうにかしてこちらを見てほしいと思ってしまう。だから遠ざけたかった。もう誰の手も、ルチルも僕も届かないところへ、にいさんをやってしまいたかったのだ。そうすれば、もう、こんなにも眩い。

「なくした仲間達との思い出は、こんなにも美しく輝くものだったね…忘れていたよ」

ひたり、と自分の胸に白い指を添える。その服の下、首から下げた小さな布の袋には、黙って一房だけ切り取ったパパラチアサファイアの髪の欠片が入っている。ああ、ルチル、ごめんね。にいさんにはただ、僕だけのものになってほしかっただけなんだ。未だ茫然自失のルチルの背中を、僕はまた一つ擦った。







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