企画


「さみい…」

夜。珍しく浮上したまま今日を明かす事になった。この辺一体は浅瀬の岩礁地帯で、昼に比べて人手の少ない夜に潜水して進むのは危険だと判断したのだ。そしてこの寒い日、運の悪いことに寝ずの番はおれの仕事だった。

偉大なる航路の天気は変わりやすい。それこそどんなに高い山よりも。この鉄の船の甲板にしんしんと雪が降り積もったのも、およそ小一時間の間の出来事だった。

「積もったっていうか、積もり過ぎじゃ…」

マフラー、毛布、手袋、いつものニット帽に耳当て。未だかつてない重装備で見張り台から甲板を見下ろす。甲板はポーラータング号の木目が見えないほど雪が積もっていた。

しんしんと、波の音を吸い込みながら雪が降り積もる。吹雪く程ではないが大粒の牡丹雪が花弁のように凍てつく寒さの中をひらりと舞っている。風はそう強くなく、たまに雪の粒が微かに翻るくらいだ。

ここ最近は、雪を見ていなかった。奇想天外なハリケーンや阿呆の様な日照り、蛇口の下に迷いこんだような雨はよくあるが、こんなに静かに降る雪を見たのは久しぶりだった。全身を包んだ毛布、おれの目線の先辺りに落ちた雪を見遣ると、針葉樹の葉先のような形をした結晶が透明に輝いていた。

ハートの海賊団は、北の海出身者が多い。それは勿論キャプテンがハートの海賊団を発足したのが北の海だからだ。初期メンバーとも言える奴らや、偉大なる航路に入る前までに集った奴らは殆どがノースブルー出身だろう。かく言うおれもそうだ。だからこそ、今降り積もる雪が懐かしいのも事実。

朝になるまで、この雪は溶けないだろうか。

ふとそんなことを考えた。おれが雪を見るのすら久しぶりなんだから恐らくシャチやペンギンもおれが船に乗ってからは、おれと同じ期間雪を見ていないだろう。それにベポも白くまのミンク族なのに、雪を見るのは久しいはずだ。甲板に雪が積もっていたら、皆きっと楽しいだろう。でも甲板の新雪に最初に足を踏み入れるのは、本日運のない寝ずの番のおれでもいいだろう。そう思って、甲板に飛び降りようと見張り台の手すりに足を掛けた。のだが、雪がまとわり付いて凍結した鉄の棒はいとも容易くおれの並行感覚を奪った。

「…あれ」

どうやらおれは本当についていなかったらしい。鈍くさく宙を舞う体に、雪の冷たさと甲板への激突の衝撃を覚悟した。


「…さみい」

ふと、刺すような寒さで目が覚めた。薄っすらと目を開けて自分の体を見てみると、どうやら毛布がずり落ちていたらしい。寝る前はそんなに寒くもなかったので、布団を蹴り飛ばしたのかもしれない。さみい、ともう一度ひとりごちてから毛布を持ち上げて身体に掛けようと思ったが、はた、とその手が止まる。今日の寝ずの番は誰だったか。

取り敢えず回している順番通りにやるようにとは言ったものの、まさかこんなに冷える夜になるとは思わなかった。順当に行けばおれの、まぁ、恋人の名前だ。名前はどうやら免疫力が低い訳ではないが病気に掛かりやすい体質らしい。そのうえ普通の風邪はほぼないに近いが、風土病など特殊な病気に掛かりやすい珍病キャッチャーだ。おれとしても多くの症例を見ることができるという利点があるが、単純に好きな男、その前にクルーが苦しんでいるところはあまり見たくはない。

普通の風邪は引かないにしても、今日は冷えるだろう。少し考えてから、溜め息をついた。

「…仕方ねえ」

恋人をモルモットにする趣味はない。おれは寝床から這い出て、床にずり落ちた毛布を拾った。



「っ、ヴッ…ハァ…」

びたん、と間抜けな音を立てて背中が甲板に叩きつけられる。いつもの硬い木の床よりは衝撃を吸収してくれたような気がしないでもないが、肺から空気が抜けていったのは分かった。一瞬胸が潰れたように息が吸えなかった。体の背面がジンジンと痛む。

雪の積もった甲板に綺麗に大の字で叩きつけられた。どうやら毛布は見張り台に残ったらしい。黒いツナギのみになってしまった。しかしまあ、ツナギの生地も厚いのでまだそんなに冷たくはない。首元も帽子とツナギでカバーされているし、暫しそのまま、雪が舞い降りる空を真っ直ぐ見上げる。

綺麗だ。

ほう、と吐いた息が白い煙になってふわりと膨らんだ。すぐに空気に溶け込んで、また視界は空の黒と雪の白に戻る。

と、その時。船内に続くドアがぎい、と音を立てて開いた。


押したドアがぎい、と音を立てて開いた。小脇に抱えた毛布は冷えてこそいるが、人が包まればすぐに暖かくなるだろう。毛布が人を温めているのか、人が毛布を温めているのか。これは卵が先か鶏が先か、と良く似た疑問だ。凍てつくような外気が扉の隙間から侵入してくる。思わず首を縮めて、残りを押し開いた。

「……さみい訳だ」

雪が、降っていた。

偉大なる航路に入ってからは久し振りに見たかもしれない。中々に大粒の牡丹雪だ。ほう、と吐いた息が白い煙になって膨らんだ。デッキの新雪に足を踏み入れて、後ろ手に扉を閉めようとした時。甲板の真ん中に何か雪とは違うものがあるのが視界の端に入った。

「…?」

仕舞い忘れた荷物でもあっただろうか。ふとそちらに目を向けて、ザッと全身から血の気が引いた。人だ。倒れている。雪の中に、名前が、おれの、大切な。その黒い服に、どんどん雪が降り積もって。それを払う力も、それどころか、息すら。あぁ。

まるで、あの雪の日の。

持っていた厚手の毛布が手から抜け出して、新雪を隠すように覆い被さった。かくん、と膝から力が抜けて跪いてしまっても、それでも雪の上の横たわる人影からは目を逸らすことができなかった。

「ぁ、こ、コラ、さ…」

違うだろう。分かっているのに、あの時の景色が脳裏に焼き付いたように目の奥にちらついた。



扉を押し開けたのは、キャプテンだった。少し視線を宙に泳がせてからおれの姿を認めたらしいキャプテンは、ばさり、とその手にあった毛布が落ちた。それから、その華奢な身体が、ふらりと。

「っ!?キャプテン!?」

その場にへたり込んだキャプテンに、思わず叩きつけられた体の痛みなんて忘れて飛び起きた。呆けたようにおれの方を眺めているキャプテンの様子はいつもと少し違う。ざくざく、と足首あたりまで積もった雪に足を取られながらキャプテンに駆け寄って、肩を掴んで目を合わせる。月明かりで僅かに見える程度だが瞳孔が開いて目が泳いでいた。これはどうしたことだ。

「キャプテン、どうしました?」

出来るだけ優しく声をかける。は、と我に帰ったように息を吸ったキャプテンは、一瞬鬼気迫る顔でおれの片腕を掴み返して、それから浅い息を繰り返した。

「は、っは、…こ、コラさ、」

コラさん。

その名前は何度か聞いたことがある。その人を表す言葉はコラさんとか、あの人とか、恩人とか、おれの、大好きな人、とか。キャプテンの大切で大好きな人で、そうしてキャプテンのために命を投げ出したという、優しい人だったらしい。

どうして今その人の名前が出てくるのか、おれにはよく分からない。その人がキャプテンの大事な人で、既に故人だというのは知っているがあまり深くその死因を聞いたことはないからだ。この取り乱し方からしてみれば楽しい思い出を思い出したと言う訳ではなさそうだから、きっとおれの知らない「コラさん」の情報が関係しているのだろう。その肩が、おれの腕をつかむ指が震えているのが堪らなくて、雪の上に放り出された毛布をあいている腕で拾ってキャプテンの肩に掛けて抱き寄せた。震えは寒さから来ているものとは違うと分かっているのだが。

「キャプテン…ローさん、大丈夫ですよ…怖かったですね」

子供に言い聞かせるようにだが、迷子のような表情をしていたこの人には適切な対応なのではないだろうか。きっと雪の上に横たわっていたおれを見てコラさんを思い出したのだろうから、もしかして、それがキャプテンにとって恐ろしい記憶だったのかもしれない。キャプテンの顔が埋もれたおれの胸辺りから、くぐもった声が聞こえた。

「こ、コラさん、は…おれのせい、で」

あぁ、やはり思い出したのは、コラさんの最後の。

キャプテンはずっと胸の奥にその感情を抱えて生きてきたのだろう。大好きな人が自分を生かす代わりに命を差し出して、それがどんなに上手く転ぼうと心についた傷は塞がることはあっても消えることはない。傷跡は、一生残る。この人はその痛みをずっと、一人で。

「…ローさん」

キャプテンの手を取って、おれの左胸に当てる。おれの声も気が付いたら震えていた。どうしてかな、雪のせいで冷えたはずの頬に何か熱いものが流れた。間抜けだ、こんな時くらい格好良く決めたいのに。

「おれは、名前は、簡単には死にませんよ、知ってるでしょう?何回死にかけても絶対に死にません、おれはしぶといんです」

「…あぁ」

力のない声が返事をする。抱きしめる力を強めて、言葉を続けた。

「ほら、おれの心臓動いてるでしょう?生きてる証拠です、貴方が何回も救ってくれたんです」

「そう、だな」

とくん、とくん、自分でも心臓が鳴る音を聞いてゆっくりと目を閉じる。瞼に押し出されて、新しく涙が零れた。

「貴方が生きていてくれるから、おれも生きています、ずっと側にいますよ、ローさん」

生きていてくれてありがとうございます。

「……うん」

初めて聞く、キャプテンのそんな子供じみた返答。何だか可愛らしくてふふ、と笑ってしまった。抱き寄せた肩も、おれが笑ったのを見咎めて腹を殴ってきた手も震えは止まったようだ。意外と強い力で殴られて、背中の痛みが引いたことに気がついて苦笑した。

「…名前」

「なんです?」

芯を取り戻したキャプテンの声がおれの名前を呼ぶ。ぽん、と背中を優しく叩いて続きを促せば、キャプテンの指がとんとん、とおれの左胸を二回つついた。

「これ、寝るときに借りていいか」

「良くないですよ絶対寝ながら潰しますよね?寝返りでおれ心臓潰されますよね?」

「冗談だ」

おれの必死な様子にくく、とキャプテンが腕の中で笑う。どうやらもう大丈夫なようだ。たまに冗談か冗談がわからないことを言うキャプテンだ、寝ている間にメスられるかもしれない。まあでも、キャプテンの寝返りでおれの心臓が潰されたら、本体ごとつれてってくださいって言うか。おれは苦笑しながら、キャプテンの背中を擦っていた腕でごし、と流れていた涙を拭った。



カイ様、リクエストありがとうございました!







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