「月が綺麗ですね」

「今にも手が届きそうですね」


「月が、綺麗ですね」

少しクサいかな、なんて思いながらそう言った。I love youをそう訳したのは夏目漱石だとか。「月が綺麗ですね、とでも訳しておきなさい」と、そう言ったらしい彼には、一緒に月を見上げたいと思った人がいたのだろう。俺も、そうだ。思わずふふ、と笑って金城くんの顔をちらりと見ると、目を丸くした彼と視線がかち合った。

初夏といえども、まだ少し肌寒い夜もあるな、と思う。ずしりと重みのかかる腕のもう片方、手持ち無沙汰な右手で、風で流れた前髪を直した。今日はワックスで固めていないから、すぐに風で乱れてしまう。

今日はスーパーで色々と安売りをしている日だったらしかった。偶然そんなタイミングで買い物に来ることができていたく感動した俺に、隣で笑った金城くんは焼きそばも安売りしているな、とそっと売り込んできた。問題ない、買っておこう。最終的に今日買った品々は支払いこそ半々だが金城くんの家の冷蔵庫に収納されることになるし、俺も食べるから。

金城くんと付き合い始めたのは先月、大学に入学して一月が経つ頃だった。垢抜けなかった俺が、金城くんのことを好きになって、見た目から中身まで死にものぐるいで自分磨きをした。そんな俺の、ストーカー紛いのアタックを金城くんがさらっと「ああ、俺も好きだ」と、何でも無いように受け入れてくれたのが始まりだ。

付き合っている事は俺が頼んで周りには秘密にして貰っている(万が一金城くんが俺みたいなのと付き合っていると知れたら恐ろしい)が、それでも毎日が夢のように幸せだ。右隣、金城くんが歩いている。思わず綻んだ頬をそのままに声を掛けた。

「冷蔵庫が一杯になっちゃうね」

金城くんの右手にも一袋、本日の戦果がぶら下がっている。中には食後に食べる用のデザートも入っており、抜かりはない。ふ、と表情を柔らかくした金城くんが答える。

「すぐにまた無くなるさ」

「金城くんよく食べるから」

「その分消費するからいいんだ」

「…確かにそうだ」

は、と思わず口元に手を当てる。そうだ。金城くんは自転車でカロリー消費をしているが、俺は何もしていない。一応筋トレなんかはしているからそれで保っているのだけれど、これから先同じ食生活を続けていたらどうなることか。

「き、金城くん、俺、荷物持とうか…?」

「はは、腕だけ鍛えてもな」

「そうだよね…」

はあ、と肩を落とした俺に、金城くんが笑った。確かに、今荷物を持ったところで大した運動にはならない。う〜ん、と頭を悩ませる俺に、金城くんがくく、と喉の奥で笑った。

「そのままで良いんじゃないか、名字は」

「いやいや、これ以上太るわけにはいかないって…」

「そうか?」

太ってもいないだろう、お前は。なんの気なしに金城くんが言う。いやいや、そんなことはない、金城くんの隣に並ぶには、今でさえ俺なんて言葉の通り月とスッポンなのに。そう言おうとして顔を上げて思わず言葉を失う。

大きな月が空に爛々と輝いていた。俺の視線の先、金城くんの肩越しに輝いている月は、見事な円形だ。ああ、今日は満月だったのか、と頭のどこかで思って「見て」と空いた右手で月を指差した。金城くんもその指の先を辿るように振り返った。

「月が、綺麗ですね」

少しクサいかな、なんて思いながらそう言った。I love youをそう訳したのは夏目漱石だとか。「月が綺麗ですね、とでも訳しておきなさい」と、そう言ったらしい彼には、一緒に月を見上げたいと思った人がいたのだろう。俺も、そうだ。思わずふふ、と笑って金城くんの顔をちらりと見ると、目を丸くした彼と視線がかち合った。

「…名字」

「………あっ、い、いや、そのままの意味で」

びっくりして、思わず付け足すようにそう笑った。嘘だ。ちょうど綺麗な真ん丸い月だったから、それにかこつけて普段言わないような事を。なんて、浅知恵が働いた。我にかえると顔から火が出そうなほど恥ずかしい。ぱっ、と慌てて月を指し示した指を下げて、あはは、なんて誤魔化して笑った。

「…はは」

「も、もう、笑わないで」

金城くんが愉快そうに笑う。自分でも柄にもない、というより、部不相応な事を言ったと思っている。こういうのを口に出していいのは「ただしイケメンに限る」のイケメンだけだろう。ぐぬぬ、と一人で軽率な行動を猛省していると、金城くんがちらり、と月を見上げて、それからおもむろに口を開いた。

「…確かに、今にも手が」

ぺち、と、荷物を持っていない金城くんの左手が、俺の右手の甲に当たる。思わずそこに視線を下げれば、金城くんの無骨な指が、俺の手にするり、と絡みつくのが見えた。わあ、と思わず間抜けな声を漏らすと、金城くんかそのまま視線を上げて。

「届きそう、だな」

少しだけ、悪戯っぽく笑った。ちか、と、背後の月のせいか、その瞳が爛と輝いて見えて、思わず胸いっぱいに空気を吸い込んでしまって、背筋が伸びる。

「あー…俺、もうちょっと頑張ります…」

「だから、名字はそのままでいいんだ」

やだもう、俺ももっと男前になりたいです。歯を食いしばって胸の高鳴りに耐えるなんて、こんな経験、金城くんにもしてほしい。それにこの後、「あの時、多分俺の方がドキドキしていたと思う」なんて事を言われてしまったから、今度こそ俺から手を繋いでみたいな、なんて、そんなふうに思うのだ。






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