「月が綺麗ですね」

「このまま時が止まれば良いのに」


「月が、綺麗ですね」

寂しさと、少しの憎らしさが口から溢れた。もうどうとでもなれば良い。彼はどうせ、じきに俺の前から姿を消すのだから。声が震えたのは寒さからか、それとも別の理由か。自転車を押しながら前を歩いていた石垣さんがふと立ち止まるのが目に入った。

部活の帰り。今日もいつも通り授業の後に練習。マネージャの俺は自転車にこそ乗らないが、今日も中々の重労働をこなしてきた。俺のひとつ下、御堂筋が入部してきてからはマネージャーが俺を残して皆退部したので、すべての仕事が俺に課されるのだ。全く、いい迷惑である。

俺が入部して、二度目のインターハイが終わった。俺と同じ二年、ノブとヤマにとっても出場したかしなかったかを考えなければ二度目。一年の御堂筋にとっては一度目。そして、俺達の一つ上、石垣さん辻さん井原さんにとっては、最後のインターハイが。

「いやー、今日も遅くまですまんかったな、名前」

「いいえ、俺も用事ありましたんで」

「ありがとうな」

石垣さんの、はは、という笑いが白い息になって空中にふわりと広がる。いいえ、ともう一度答えて、俺も少しだけ笑った。

石垣さんは、家の工務店を継ぐために高校を卒業したら就職する予定だったそうだ。けれど、進路希望を変更して進学することにしたらしい。大学でもロードを続けるから、と部活の練習に顔を出し、キャプテンの座は退いても部員と同じ練習メニューをこなしている。

今日は、俺が部活終わりに雑務をしていくなら、という事で石垣さんも居残り練習に励んでいたのだ。ノブも見習ったほうがいいと思う。

歩いていて、肌を刺すような寒さに思わずふるり、と身体を震わせる。首に巻いたマフラーを鼻の辺りまで引き上げてはあ、と息を吐けば、呼気で僅かに布が温まった。ああ、冬だな、と思う。

夏から秋、秋から冬、時間はあっという間に過ぎた。あの日の茹だるような暑さの影も形もない。こうやって時間はどんどん過ぎていって、俺は何だか、一人で取り残されていくような、そんな気持ちだ。

石垣さんが押す自転車を見る。とてもきれいに磨かれてはいるが、俺はその赤い車体に幾つも細かい傷が刻まれているのを知っていた。あの夏を、インターハイを駆け抜けた赤い自転車。それでいてゴールラインを踏む事はなかった彼。俺はゴールで、タオルとボトルを持って待っていたあの日からずっと動けずにいる。こんなに寒くてもまだ俺の夏は終わっていないのだ。

「寒なったな」

前を向いたまま、石垣さんが言う。本当ですね。そう答えようとしたが、胸が潰れたようになって答えられなかった。急に感傷に浸るからだ。ふ、と浅く息を吐いて、それから冷たい空気を肺いっぱいに含む。僅か、上を向いた視線が空を見た。

「…月が」

「うん?…お、満月やな!」

でかいな、そう笑った石垣さんの声が少し遠くに聞こえた。ああ、本当ですね。ひとつぽつりと呟くように答えた。

空に丸く空いた穴のように、満月が浮かんでいる。周りに雲一つない。道理で足元が明るいと思った。明るいけれど、何処か寂しい。まるで一人空に取り残されてしまったようで。

「…石垣さん」

気が付いたら石垣さんの顔は見えず、後頭部が視界に入った。気が付かないうちに俺の足が遅れていたらしい。また石垣さんは、彼は俺を置いていく。もう石垣さんはあの夏にいない。大学で新しい仲間とロードを始める。京都伏見を卒業して、新しい環境に旅立っていく。あの夏、ゴール前、まだ一人取り残されている俺を、置いて、彼は。俺は一人ずっと、石垣さんを待っているのに。

「月が、綺麗ですね」

寂しさと、少しの憎らしさが口から溢れた。もうどうとでもなれば良い。彼はどうせ、じきに俺の前から姿を消すのだから。声が震えたのは寒さからか、それとも別の理由か。自転車を押しながら前を歩いていた石垣さんがふと立ち止まるのが目に入った。

「…名前」

「石垣さん、月が綺麗ですね」

追撃するように、もう一度言葉を重ねる。彼にはこの月が見えているのだろうか。間抜けに足を止めて空を見上げる俺を置いて先へ行く彼には。それともあんなもの、見上げる暇などないと真っ直ぐ前を見て走っていってしまうのだろうか。

自転車を片手で支えたまま、石垣さんが振り返る。車体と同じ赤いマフラー。その下で彼が、ふと笑った気がした。

「…このまま時間、止まってしもたらええのに、な」

どさ、と俺の手からスクールバッグが転げ落ちる。月の光の逆光は柔らかい。石垣さんがぎょっとした顔も、しっかりと見える。あぁ、狡い。狡い人だ。両手で顔を覆いたくなる。そんな答えを返されたら、だったら二人、いっそ世界から取り残されたまま何処かへ行ってしまいたいと、思ってしまうだろう。ぐう、と蛙が潰れたような吐息を飲み込んで、絞り出すように呻いた。

「……卒業、しないでください」

「留年はいややなあ…」

「卒業なんて、いやや、石垣さん」

刺すような冷気のなか、じわりと両目だけが熱くなった。滲んだ景色の中、石垣さんが困ったように笑う。それから一歩俺に近付いて、出ていない涙をそっと拭うように人差し指の外側で頬を撫でた。

「…泣かんといてや」

「泣いてません」

うそや。可笑しそうに声を弾ませた石垣さんが、その後俺の頭をくしゃくしゃと撫でる。俺の頬と同じ冷たさの指に、少しだけ泣いた。

「もっと、ゆっくり歩こか」







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