「月が綺麗ですね」

「ならずっと見ていたらどうですか」


「月が、綺麗ですね」

そう言って、見上げた月から栄吉くんの顔に目を向ける。振り向いたその顔が余りに無表情だったから、思わず咄嗟に、なんてね、と冗談めかして笑う。進行方向に視線を戻して、頭の後ろで両手を組んで、冗談ですよ、と言った様子を取り繕った。仮にも恋人が恥を忍んで言った戯言なのだから、少しくらい反応してくれてもいいんじゃねぇのか。ふう、と鼻から息を吐いて、それでもなんでもないふりをして歩いた。

栄吉くんの部活の終わりと、おれのバイトの終わりが珍しく被った。昨日バイト仲間が急遽休んだ分、今日は代わりに早帰りになったのだ。

バイト先を出るなり、ドアの前のガードレールに寄りかかっていた栄吉くんが振り向いた。ので、その待ち伏せするヤンキーのような風体を見てニヤリと笑った。

「はーん、どおりで今日は客が少なかった訳だ」

「平日から焼肉屋に来る奴なんておらんじゃろ」

「焼肉に曜日は関係ねーの」

とは言うものの、平日ともあり、客は疎らだった。しかもまだ晩飯時には微妙に早い時間。間食の時間に焼肉を食う輩の人数なんてたかが知れている。殆ど晩飯時に向けた準備に時間を費やして、準備をするだけしてさっさと引き上げることになった。

「ほんまに早かったのう」

「時間ぴったりでしょ」

店の前で待ってる。そんな連絡が来たのを、退勤を押してすぐ後の休憩室で確認して、上着を肩に引っ掛けたまま出てきた。俺の少し前を、すぐに自転車を押して歩きだそうとする栄吉くんに「まって」と声をかけて荷物を地面に置く。

「オイ」

地面置くなや。そう文句を言いながらも俺のカバンを拾い上げる栄吉くんをよそに、急いで上着に袖を通した。カバンにも入らないし、ずっと手に持っていたら邪魔になる。出来れば食べ物臭のする服の上に着たくはないが、やむを得ないだろう。

「ありがと」

ん、とカバンを差し出す栄吉くんからそれを貰って、ついでに栄吉くんが背負っているリュックもむしり取るように受け取った。危ないじゃろ、と文句を言うけれど何だかんだ俺にリュックを渡してくるあたり、甘え上手な男である。動いてふわり、と香ったシャンプーの香りに、おや、と思う。

「シャワー浴びてきた?」

部活帰り、と言うくらいだから汗まみれで帰ってくるとばかり思っていたから意外だった。というか、いつもの栄吉くんはうちに泊まるとき、シャワーを浴びずにそのまま帰ってきて家についたら即風呂に入るので、大学のシャワー室が嫌いなのかと思っていた。あー、と考え込むように言いながらわしわし、と髪を掻き乱す栄吉くんが、下唇を突き出したまま眉を潜める。

「…そこはまァ、分かれや」

珍しい表情だ。思わずぽかん、とした表情を晒すと、俺から隠れるように栄吉くんが顔を逸らす。それにぴんときて、思わずにまり、と顔を歪めながら栄吉くんの更に近くに寄った。

「……あ〜ら、俺の隣歩くから?」

「じゃかあしいわ」

「いじらしいところがあるじゃないですか〜」

「…そういうオマエは肉臭いんじゃ」

けらけら、笑いながら栄吉くんの少し前を歩くと、軽口への制裁か、ぼす、と柔らかく肩に拳を受ける。いいや、これは照れ隠しだ。いてぇな、と笑いながら振り向くと、空に一つ、輝くものがあって、思わずそこで目線が留まった。

三日月だ。細い、手で掴んだら折れてしまいそうな月。あれがこれから消えていくのか、それとも太っていくのか、毎日月を気にしているわけではない俺には分からない。でも何か、風情があるなぁ、なんてぼんやりとした感想を抱きつつ「ねえ、あれ」と月を指差して、いやでも、俺がこんなこと言うなんて、らしくないって笑われるんじゃないだろうか。そう躊躇ったが「ん?」と振り返って空を見上げた栄吉くんに引っ込みがつかなくなって、頭に浮かんだ台詞をそのまま口にした。

「月が、綺麗ですね」

そう言って、見上げた月から栄吉くんの顔に目を向ける。振り向いたその顔が余りに無表情だったから、思わず咄嗟に、なんてね、と冗談めかして笑う。進行方向に視線を戻して、頭の後ろで両手を組んで、冗談ですよ、と言った様子を取り繕った。仮にも恋人が恥を忍んで言った戯言なのだから、少しくらい反応してくれてもいいんじゃねぇのか。ふう、と鼻から息を吐いて、それでもなんでもないふりをして歩いた。

「…言い逃げか、ワレ」

と、後ろから、僅かに不機嫌そうな声が飛んでくる。そんなに真に受けることでもないし、なんならそのままスルーして頂いても構わなかった。のだが、あえて拾われた俺の恥ずかしい言葉にふ、と息を吐いて後ろを向いた。

「無視したのはそっち…えっ」

暗闇でも、分かる。耳まで真っ赤だ。自転車を支えつつ押している手はそのままだが、もう片方の手の甲で栄吉くんの顔は隠れている。その下で恐らく引き結ばれていた唇が開いて「無視じゃのうて」と言った。

「名前くんもそんなこと言いよるんかって、たまげたんじゃ」

クッサイのう。なんて、そう言いつつもしっかりそれにときめいている、お前はどうなんだと言いたい。はぁ、と心を落ち着けるように溜め息をついて、ひたすらに恥ずかしい気持ちを抑える。それからそっと腹の前で腕を組んで、栄吉くんの顔を覗き込むようにぐ、と上体を屈めた。

「…うん、改めて見たら、ほんとに綺麗だったわ」

う、と少しだけ栄吉くんが身体を逸らしたが、そのままの姿勢の俺を一度見遣って、何故か少しだけ背中を丸めた。恐らくは目を逸らしたら負け、なんていう意地のようなものなのかもしれない。栄吉くんのの薄い唇がゆっくりうごいて、それからふ、と密かに笑みの形が作られる。

「ほいじゃア、ずっと見とったらエエワ」

のう、と続けながらもそれでもまだ恥ずかしいのか、眉間のシワはそのままだ。でも、にま、と挑発するように細められた目は、ついさっきどこかで、と頭を過ぎる。それでふと思い出した。

ああ、三日月だ。今、俺の頭上に輝く三日月。手で掴んだら折れそうな、そんな。思わず栄吉くんの後頭部にぐ、と手を回して、その唇に齧り付く。んぐ、と驚いたようにくぐもった声が上がった。軽く歯で挟んでから、ぺろり、と控えめに舐め上げれば、すぐ近くで肩が跳ねる。唇が触れない距離までそっと離れて、そのえもいわれぬ表情を見たら思わずくく、と喉の奥で笑ってしまった。

「おし、さっさと帰ろ」

「…オウ」

恨みがましい目で後頭部を射抜かれているのを感じる。いつも飄々としている栄吉くんのそんな様子が珍しくて、こらえ切れず吹き出してしまう。もう一度殴られた背中のじんじんとした痛みすらも、今は面白いと感じてしまうのだから困ってしまう。見上げる度にその綺麗さに毎回驚かされるのだから、そこに愛の言葉を重ねられる理由も、なんとなくわかった気がした。









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