FLOWER

Case 2


インハイ前、京都弁分かりません





御堂筋が京伏の自転車部を乗っ取る形で指揮権を手にいれてから、少し経った。

今日も馬鹿みたいな量の練習を終えて、あとは着替えて帰るだけだ。制服に着替えて、余裕はあるが帰る前にトイレに寄ろう、とまだ数人残った部室に荷物をおいたまま出た。目立つ所に荷物を置いておいたから鍵を閉められることもないだろう。大して急ぎもせずに手洗い場に向かった。

俺はと言うと、新たなエース的視点で言えば「メンバーに入れない程度のザク」らしい。闘争心もなく向上心も足りない、俺らしい評価だとつくづく思う。長いものには巻かれ、執着心はなく、プライドも高くない。驚く程に一年生がエースになるという新たな環境に溶け込み、今まで仲良くあだ名で呼びあっていた仲間や尊敬していた先輩を苗字にくん付けすることにも慣れた。

「ほぉんとにキミ、薄情モンやね」

御堂筋の言葉が頭の中でリフレインする。新しいエース様曰く、パッと見特に目立った才能のない俺の、たった一つ褒められるところがその薄情さだという。ロードで確かにチームプレーは大切だ。しかし、いかに仲間を切り捨てられるか、それが物を言うこともないわけではない。ただ、その言葉を聞いた瞬間に俺は全身から血の気が引いたような気がしたのだ。

薄情者、やはりそうなのかもしれない。否、そうとしか言いようがないのだろう。俺はひどいやつだ、きっと、クズ人間に違いない。裏切りだ。だって胸が痛まない。なにも、感じない。大切な先輩が新しいエースの独裁と、他の部員の反発の間で押し潰されそうになっていても、俺は何もしないでいられるのだ。

御堂筋のやり方に賛同しているわけではない。ノブのようにあいつに憧れているわけでもない。かと言って、批判の声を上げることもない。ただただこの状況に甘んじて溶け込んでいるだけだ。事なかれ主義といえば聞こえはいいが。

石垣さんは、優しいから。

今まで石垣さんの後を追いかけていたノブが、御堂筋の強さにあこがれて掌を返したようにそちらを追いかけても、困ったように微笑むだけだった。あまりにもな独裁制に耐え兼ねて部を去る奴らにも「すまんな」なんて謝って、その気持ちを汲んで追わないことを選んだ人だ。きっと誰より辛い、誰より。

俺は石垣さんに自転車競技に誘われた。ヤマと同じ高校から始めた自転車競技だが、あいつと違って根性無しな俺に「それでも見込みがある」と笑ってくれたのは石垣さんだ。その笑顔に背中を押されて、初心者ながらまあまあ戦えるレベルにはなったのではないだろうか。そう、石垣さんの笑顔のために、石垣さんをゴールに運ぶために、石垣さんに、喜んでほしくて。喜んでほしかった、のに。

なのに、おれは。

「っ、う」

来た。唐突に少しえづいて、思わず口元に手を当てる。ぱらり、と湿った感触がして、そこを見ると暗闇に溶け込むような紫色の花弁か転がっていた。最近はもう見慣れてしまったものだ。

インターネットは便利だ。最近は少ない手掛かりからでも目当ての情報を手に入れることができる。少し前に、と言うか自覚症状が出てから直ぐに調べた。

初めはなぜ喉の奥から花弁が出て来るのか、そんなことから。花吐き病なんて俺には心当たりがなかった。誰に恋してるかなんて分からなかったし、そもそも恋をしている自覚すらなかった。何かの間違いかとも思ったが、とりあえず情報がないことには、と焦りを誤魔化すように色々と探したものだ。

そしてその花弁の特徴から、この花がなんなのか突き止めた。細長い楕円のような花弁。その先がくるりと外側に反ったような形。その淡い紫色の花の名前は、ヒヤシンス。そして花吐き病にはどうやら多少花言葉も関連するらしい。だから、花言葉も調べた。

あの時、するすると液晶の上を滑る目が紫のヒヤシンスの花言葉を見つけた。悲しみ、悲哀、初恋のひたむきさ、どれもこれも何を言っているんだ。俺は最初からかなわない恋をしているのだろうか。相手が誰だか分かる前から、恋が叶わない事だけが分かるなんて散々だな、そう思ったすぐ後。

「…ちがう」

最後の一つ。その花言葉を目に写した瞬間、浮かぶ顔があった。そんな、まさか。あり得ないと目を見開くと、喉の奥から押し上げる圧迫感。

そんな、おれは、貴方に恋だなんて身勝手な感情を抱いていたのか。きっと苦しんでいるだろう今の貴方に何もできないで知らないふりをしているような俺が。憧れでよかった、憧れでいさせてほしかった。見込みがある、なんて俺でも思っていなかったのに、笑って背中を押してここまで頑張らせてくれた人を。俺は少しも助けられないのに。どうして、どうして俺は。

紫のヒヤシンス、花言葉は。

「ミョウジ?」

名前を呼ばれて、は、と意識を引き戻される。振り返れば俺の荷物を持った制服姿の石垣さんがいた。自分でも目が泳いだのを感じる。

「すみません、持ってきてくれたんすね」

「長いこと帰って来んかったから、大丈夫か?」

「…はい、すんません」

「ええよ、気にすんな」

気がつけば、部活が終わってから二十分が経っていた。物思いに耽っていたらしい。日も暮れた。トイレも大して切羽詰まっている訳ではないし、帰ってからでいいだろう。そんなことより、早くこの場を離れてしまわないと。

「トイレにしては随分長かったな」

「ちょっとのっぴきならない事情がありまして」

「はは、おつかれさん」

あたかもトイレで用を済ませてきたように言う。笑う石垣さんに俺も少し俯いて微笑み返せば、その表情が僅かに曇った。

「何か、悩みでもあるん?」

その言葉に、今度は俺が言葉に詰まる番だった。何を、と誤魔化そうと口を開いて、しかし何もかも見通したようなそのまっすぐな目と視線がかち合って何も言えなくなる。一度何か言おうとしたが、誤魔化しは通じないだろう。それどころか、俺は今何を言おうとしたというのか。押し黙るおれに無理には聞かんよ、という石垣さんの言葉はとても優しく響いた。

「…お、れは」

「うん」

柔らかい声に続きを促される。

「おれは、石垣さ…っぐ」

「うん?」

そのまま吐き散らすように本音が出るかと思った。しかし喉から出たのは言葉ではなくつるりとした感触で、そこで我に返る。なんて言おうとした?もしかして、あまつさえ俺は今の状況で「石垣さんが好きです」なんて口走ろうとしたのではないか。思わず口元に手が行く。

「なん、でも…ないです」

何を考えているんだ、と全身から血の気が引く。まだ症状が軽い方でよかった。一枚くらいなら気付かれない。大丈夫だ。は、と小さく安堵の息を吐く。石垣さんは口を噤んだ俺に少し驚いたように目を丸くした後、少し悲し気に微笑んだ。

「…そ、か」

言える訳がないだろう。何を言っても余りにも陳腐だ。好きです?無理しないでください?御堂筋のこと?石垣さんを引きたかったって?去っていた部員の事?何を言えっていうんだ、どうせ俺には何もできない、何もしようとしないくせに、行動に移せるほど勇気のある人間じゃないくせに。

石垣さんにだって、そんな、こんな悲しい顔をさせたかった訳じゃないのに。

「だいぶ遅くなっちゃいましたね、帰ります?」

「おん、せやな!」

あからさまに話を逸らした俺に石垣さんはにっこりと笑った。暗闇の中でも眩しく感じる俺は、明らかに石垣さんの事が好きなんだろう。それはもう疑いようのない事実だ。しかし、だからこそ、俺は俺を許せない。何もできない無力な自分が、何もしない、薄情なおれが。





ヒヤシンス(許してください)

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