FLOWER

Case 3


「っせぇんだよ…てめえに関係ねえだろ!」

我ながら癇癪を起こした小学生みたいだ、とナマエは思った。

吐いた花を見られた。幸い箱根学園の寮の部屋は一人部屋で、多少の秘密なら外に露見することがない。何なら昔一人部屋の卒業生が部屋で猫を飼っていたこともあったと聞く。勿論こっぴどく叱られたそうだが、備え付けの鍵を掛けていればそれくらいプライバシーの守られた場所なのである。だからナマエも、油断していたのかもしれない。

ベッドは毎日ナマエの吐いた花まみれだ。特に昼寝でも何でも睡眠をとった後は特に。なんだこれ寝汗か、口じゃなくて身体から出てるんじゃないか、と何度自分の目を疑っただろうか、と彼は苦笑する。

鍵を閉めたつもりになっていた。花吐き病に罹った最近は部屋の鍵を閉めるようにしていたが、そんなにすぐ習慣になるはずがない。とりあえず何か口に入れたいと片付けは後回しにして、談話室にジュースを買いに行って。そうしたら運悪く鍵を閉め忘れ、どうやらそれに重なるようにもう一つ不運が起きたらしい。

開けようと刺した鍵が空回り、ナマエは、気をつけたつもりでもついつい忘れてしまうな、と呆れ交じりの溜め息を吐いた。気が抜けているのではないだろうか。田舎の民家よろしく今まで鍵を開けっ放しで生活してきたのだ、寧ろ鍵を掛けるという行為に違和感を覚えるレベルだ。

ガチャ、と自室のドアノブを捻る。視界に飛び込んできたのは、無造作にナマエのものではないスリッパが散っている床だった。

「…は?」

吐息のような声が震えたのが分かる。ぞ、と背中を悪寒が走って、ドアを開けた手が総毛立つのを自覚した。そんな、と緩やかに視線を部屋の奥へやれば、ナマエが入って来たのも気が付かない様子の細身の男が、ベッドに散らばる花弁にそっと手を伸ばしていたところだった。頭が、真っ白になる。

「触んな!」

「!」

咄嗟に叫べば、よほど驚いたのかびくり、と肩を驚いた猫のように跳ねさせた彼は、まずい、といったような顔でこちらを振り返った。どうして、どうしてお前がここに。そう問い質してやろうかと思ったが、ナマエも相手も酷く動揺している。ただ事が荒立つだけだろう。

「…荒北」

ナマエがゆっくりと名前を呼べば、その表情はなりを潜めた。無表情に近いが、どこが彼を責め立てるような顔だ。元々目付きが悪いこの男だからといって、それは偏見ではない。

「…オメー、こんなロマンチストだっけェ?」

そう揶揄的に言った荒北は、顎をしゃくってベッドの上の花弁を指してみせる。寮住まいをするにあたって家を出るときにナマエが母親に持たされた水色のシーツ。それを上書きするように散らばるのは、真っ赤に、部分的に白の入った花弁だ。ナマエは体勢を変えずにそこを一瞥して、それから荒北に視線を戻した。

「…いや?花は昔色水作ったっきりだな」

「…んじゃこれ、あんだヨ」

まだ瑞々しく生き生きとしている花弁は、大きめの花束一つ分くらいの量はある。それはそのままナマエの花吐き病の進行の具合をそのまま示している。細められた荒北の目は、ああ、いつも細いけれど。しかしいつもより鋭い視線が、それを承知しているということを険しさでもって物語っていた。

「…さあ、知らねぇな、誰かのサプライズじゃねーか」

ナマエがく、と口の端を引き上げて平静を装う。ただその目は隙を見せないようにと荒北を睨みつけるのだから、荒北の何かあるだろうという予想の裏付けになってしまう。荒北も受けて立つ、とでも言うように眉間に皺を刻む。

「男子寮で花はねーだろ」

さあ吐け、と荒北の言葉がナマエに促す。だが、荒北の目の前の男は苦々しげに視線を逸して見せた。その内心では、よりによってお前に、と髪を掻き乱しているのだ。よりによって、何故、こんなになるまで思いを抉らせた相手である、荒北靖友に事態が露見してしまったのか。服の胸元をぎゅ、と握りしめて、ただの荷物となっていた部屋の鍵の凹凸を忌々しげに指で撫でる。

暫し黙ったまま荒北は、ナマエのベッドシーツに広がる赤い花の絨毯を眺めていた。表情が全く読めない。お前には知られたくない。どうかこのまま何事もなかったように去ってくれ。と、そう思うが、喉奥から込み上げてきた花弁がナマエの食道をがさがさと擦り上げて、否応なくの皮膚が背中が粟立った。

あ、まずい。そう思って、口元を手で覆うが、もう遅い。

「っ…がっ…うえ゛っ…!」

ばたばた、とフローリングの床に散らばる赤い花弁を、呆然と眺めているのが分かる。それもかなりの量だ。圧巻だろうな、と酸欠になりかけた頭で思って、ナマエはかくん、と膝を折った。

「お、おい、ナマエ…!」

「さ、わるな」

荒北が流石に慌てた様子でナマエに駆け寄るのを、震える声で拒絶する。頼むから触れてくれるな。伝染す訳にもいかないし、荒北に触れられれば、少しでも浮かれてしまう心がナマエにはあるのだから。這いつくばったナマエの頭上で荒北が狼狽える気配がする。そしてナマエは、荒北の口から決定的な言葉が放たれる気配を肌で感じた。

「な、これさァ、花吐き」

その瞬間、だん、と拳で床を叩く。途切れた荒北の言葉に安堵しながら、ゆったりと顔を上げた。

「っせぇんだよ…てめえに関係ねえだろ!」

頼む、関わるな。そう懇願するように、ナマエはぎり、と音がするくらいに荒北を睨みつける。分かっている、時間の経過と共にこの症状が悪化していくこと。だがそれでも、こんな現場を見られてしまえば目の前の男は俺を助けたいと思ってしまうだろう。そんな同情はいらない。それなら、とナマエが思ったところで、荒北の顔が泣きそうに歪んだ。

「…あっソォ」

ふ、と荒北がナマエから床に目線を移す。その瞳が揺れているように見えて、思わずナマエも目を見開いた。何だ、その顔は。平素の彼なら、せっかく心配したのに怒鳴られた事に多少怒るか、ナマエのつまらない意地を馬鹿の一言で一蹴する、筈だろう。今の状況も忘れて、ナマエは気遣うように「あ、らきた?」と、名前を呼んだ。が、彼は眉間に皺を寄せたまま、少しだけ目を閉じる。

「…邪魔したネ」

それからふい、とすぐ顔を逸らした荒北は、ナマエに目もくれず、横を足早に通り過ぎる。ぱたん、と閉まった扉に、思わず言葉を失った。何だその反応は。拍子抜け、と言う訳ではないがただただ困惑させられる。しかし、一つだけ想像が及ぶ事に、ナマエはそっと頭を抱えた。

「…そら、あんな言い方したら嫌われるわ」

ぱたん、と閉じた扉の向こう側で、同じ様に額に片手を当てている荒北は暫く呆然として、それからふ、と口元だけで笑った。あー、と前髪をくしゃくしゃと掻き乱して、音がしないように扉に背中を預ける。そして握り締めた反対の手を、ゆっくりと開く。

「ハ…俺には…関係ない、だってヨ」

真っ赤な花弁に、白い線の入った花弁。目の前で、誰を思って生まれた花なのだろうか。そう考えた荒北の目に涙がこみ上げてきたのは、きっと喉奥を圧迫するなにかのせいだ。ぎゅ、と胸元を握り締めた彼は、鳩尾あたりを締め上げられているような感覚に、思わず少しえづいた。





アネモネ(恋の苦しみ)

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