茨の君
小鳥の囀りが聞こえ、まだ冷たい朝日が顔に掛かる。トロデーン兵の朝は早い、まぁ、どの城の兵士も早いだろうけど。僕は寝返りを打って日光を避けるように布団をずるずると引き上げた。その瞬間、ありえない位の衝撃に襲われる。

「エイト兄ィ!朝だぜ朝!」

「ぅぐふっ!?」

内臓はおろか、消化された筈の昨晩の飯まで出そうになる位の物理的ダメージに、眠気は体から逃げるように出ていく。腹の辺りでもぞもぞと動く体重が消え、十四、五歳位の少年がバサリと僕の布団を剥ぎ取った。

「起・き・ろ!」

「まっ…ぶしー…」

「あっ、もう寝んなってば」

全くもー、と言いながら僕の両腕を引っ張り、力ずくでベッドから引き摺り落として投げ捨てる。脇腹や腰を強かに打ち付けて僕は小さく呻いた。少年、リクトは上から文句を浴びせてくる。

「起きろていけつあつ」

「僕はお前の高血圧が心配だよ…」

「おれは十分健康ですー、早く起きろよ」

「さっき永眠しそうになったけどね、誰かさんのせいで」

「ごちゃごちゃうるさいなー、もう時間ぎりぎりだって」

「…え、早く言ってよ」

「エイト兄ィが起きないのが悪いんじゃん」

はい終わり、とリクトが手を二回打ち鳴らす。エイト兄ィ、と僕を呼ぶリクトは、恐らく弟。僕がこのトロデーン城で保護された時に隣で寝息を立てていて、同じ民族衣裳のようなものを着ていた。だから僕より身長が小さかったからという理由で弟なのだが、本当は兄かも、双子かもしれない。
ぶつけた箇所を撫でながら体を起こせば、既に寝間着ではない部屋着に身を包んだリクトがこちらを呆れ気味に見ていた。

「ったく、近衛兵になってから何年経つんだよ」

「何年か」

「はいはい、言ってろ言ってろ」

だらしねぇなぁ、そう僕を貶しつつも弾む声に違和感を感じた。どうやらいつもより機嫌が良いようである。

「リクト、何か良い事あった?」

そう尋ねればリクトは目を丸くしてから瞬きをし、僕を起こそうと右手を差し伸べて笑った。僕はその右手を掴み、支えにして立ち上がろうとする。

「…分かる?」

「いや、だって何か気持ち悪いもん」

「笑顔が輝かしいと言って欲しいんだけどな」

「…うわ、鳥肌立った、どうしたの本当に」

リクトはにっこり笑顔のまま、僕の手をぱっと放した。一瞬無重力のような感覚に襲われ、床に尻餅をつく。

「いっ!たーっ…」

「聞いて驚けよ、実はさ、俺…」

ふふん、と勿体ぶった様子で話すリクト。どうやら本当にとても良い事があったらしく、いつもとは少し、否、かなり様子が違った。
うん、と頷いて先を促せば、腰に手を当てて一層笑みを深くする。

「俺、近衛兵に格上げされるかもしれねーんだ!」

へへ!と胸を張って答えるリクトに、僕はぽかんと目を丸くする事しか出来なかった。リクトも二、三秒そのまま固まる。その場に妙な沈黙が流れ、先にそれを破ったのはやはりリクトだった。

「…え、反応ないの?」

「いや、何か、驚き過ぎたって言うか」

寝起きでぐしゃぐしゃの頭を撫で付けながら今リクトに言われた事を反芻してみる。リクトが、近衛兵に格上げ?

「鈍くさいリクトが近衛兵に…っいった!」

「エイト兄ィ、ぶん殴るよ?」

殴ってから言わないで欲しい。はぁ、と溜め息を吐きながらやっと今日初めて起き上がる。そうすれば頭四分の一位の身長差。うん、やっぱり僕が兄だ。そう勝手に確認してむすくれた弟の、自分と同じ色を湛えた日焼けして焦げ茶になった黒の髪をくしゃくしゃと掻き回すように撫でた。

「はいはい、昔姫様にもチャンバラで負けた事があるリクトが近衛兵なんて凄い凄い」

「だぁぁぁあ!?それは関係ないよな!昔の話だよな!」

「そうでもないよ、三つ子の魂百までって言うしね」

「的確!」

これだけ言えば理解してくださる方も居るだろうが、姫様は運痴だ。リズム感はさすがというべき所もあるが、それに伴う運動能力がないのである。リクトは一つ溜め息を吐いて僕に非難の目を向けた。

「弟の出世を喜べないなんて、心の狭い兄貴だな」

「喜んでない訳じゃないよ」

けっ、とやさぐれる弟のフォローにさりげなく回る。寝間着を素早く脱ぎながらふ、と笑って言った。

「自分の事みたいに嬉しいし、リクトの努力の成果だと思う」

リクトに視線を移せば意外そうに見返してくる。それからにやりと笑顔になり、嬉しかったのであろう、着替え途中の僕の背中をバシバシ叩いてきた。

「だっろー?俺、頑張ってるよな、兵士長にも誉められたしさ」

「はいはい、ところでリクトは着替えなくていいの?」

「俺は今日非番なの、さっさと行かないと本格的に遅刻だよエイト兄ィ」

上機嫌に言うリクトに苦笑しながら剣を腰に差す。これで準備は終わりだ。朝食は全体での訓練の後に皆で食べる事になっている。

「はいはい、行ってきます」

「おー、頑張ってねー」

リクトがひらりと手を振ったのを視界の端に捉え、僕は扉を後ろ手に閉めた。
その笑顔をもう一度見れるのがずっと先になる事も、知らずに。



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