「ど、どこ行くんですか」
「ちょっとな。お前は役人と待ってろ」

 安心させるように「な?」と微笑みかけるが、男はやけに顔を引き攣らせて拒絶する。

「嫌です、マスターが行くなら俺も行きますっ、置いて……置いてかないで、ください……お願い」
「ジョン……?」

 何がそんなに不安なのか、服を掴む男の拳には血管が浮かんでいた。連れて行く気など一切なかったが、「離せ」と言えなくなる。
 困り果てる恵を後押ししたのは、勝手知ったる様子で椅子に腰かけ、足をぶらつかせている役人だった。

「いいじゃないか、連れて行っておあげよ」
「馬鹿言うな、こいつは何も知らねえんだぞ」
「なら教えてあげればいいよ。一人にして、後で追いかけて来られた方が困るだろう?」
「けど」
「ああもう、いいから早くしておくれ。魂は常に不足しているんだから、もたもたしていると出生管理部から苦情がきてしまう」
「……お前らって部署分けされてんの?」
「僕は死者統括部のヒト課だよ」

 恵は眉を寄せて悩んだが、長い息を吐くことで了承する。連れて行ってもらえることを察して目を輝かせるジョンを見上げ、人差し指を立てた。

「いいか。絶対俺から離れるんじゃねえぞ」
「はいっ」
「後、これな」

 扉の傍へ置いた面積の狭い台には、瓶詰の飴が常備されている。恵はその中から飴玉を二つ取り出し、一つをジョンに握らせた。

「入る寸前に口に入れろ。でも舐めるな。噛むな。食べていいのは店に戻ってからだ」
「そんな遠出するみたいに……」
「遠出だよ。いいか、約束できるなら連れて行く」

 ジョンは戸惑うが、すぐに真面目な顔で頷いた。恵は拭えない不安を抱きながらも冷えきったカナコの手を握る。
 すると役人はその様子が見えているかのように、朗らかな声で言った。

「もう鍵は開けてあるよ。行ってらっしゃい」

 その言葉を待っていた恵は飴玉を口に入れ、躊躇なくノブを回して扉を開けた。
 そこに広がる異様な光景に、背後で息をのむ気配がする。

「嘘ですよね……?」

 目の前へ広がるのは、恐ろしいほどに真っ白な空間だ。曇り一つない無彩色の中へ足を踏み出すと、平衡感覚が失われそうになる。
 扉が閉まって店内と遮断されると、地面を浅く満たす水の涼やかな音が耳についた。

「残念、本当。飴は入れたか?」
「はい……あの、ここは……?」
「巡り廊下っていうんだ。服、離すなよ」

 返事代わりか、エプロンの結び目をジョンが握り締める。恵はその感覚をしかと覚え、カナコの手を引いて歩き出した。

「色々訊きたいことはあるだろうけど、見てた方が早いだろ。飴さえ食わなきゃ問題ねえから、気になることがあるなら言えよ」
「わかりました……え?」

 十数歩進んだところで、どこまでも白かった空間に透けた映像が浮かび上がる。ジョンは驚いて背後に張りつくが、カナコの足取りが重くなったのを感じた恵は立ち止まった。

「これな、カナコの記憶」
「記憶……?」
「ああ。カナコ、産まれたときは小さかったんだなあ……」

 たくさんの親戚らしき人に代わる代わる抱かれる赤ん坊を、カナコはぼんやりと眺めている。やがて赤ん坊がお宮参りのために着物を着せられ始めると、自ら歩き出した。
 彼女が歩けば手を引いて、立ち止まれば見守る。そうやって寄り添いながら、恵はジョンが知りえない真実を話して聞かせた。

「この世界にやってきた魂は、生まれ変わるために浄化されていくんだ。今のカナコは、自然浄化が終わった状態。そいつらはここを通って転生する」
「じゃあ……この巡り廊下って」
「幸せな走馬灯を見せて、最期の浄化をしてる。後ろ、見てみろよ」

 言われるまま振り向いたジョンが「ない」と呟く。

「なんで……? また真っ白……」
「通り過ぎたら消えるんだ。記憶ごとな」

 そうして、全ての記憶が消えた魂は本当の意味で死を迎え、漸く生への道を進む。
 恵はあえて言わなかったが、ジョンは察したようだ。カナコの記憶から目を逸らし、恵の後頭部ばかりを見つめている。

「なんで、そんなに詳しいんですか。役人さんが言ってた……お仕事って」

 真新しい制服に身を包み、満面の笑みで姿鏡の前に立つ少女を眺めて微笑む。たった二カ月ほどの付き合いだったが、夢と希望に溢れたカナコを妹のように思っていた。
 だからこそ切なくて、この後を思うほどに遣る瀬無い。それでも自分が彼女の手を引けてよかったと思う。恵の担う役割には、そんなジレンマがつきまとっていた。

「俺みたいに記憶がない人間は、浄化されねえんだ」
「え……?」
「個人を形成する主軸は記憶だからな。そういう人間はこの世界で半永久的に存在する代わりに、こうして浄化された魂を見送る仕事をするんだ。いわば水先案内人ってやつか」
「でも……役人さんがいるじゃないですか」
「あいつらはこの廊下に入れねえんだと。よく知らねえけど」

 そう言って無理に笑ったとき、エプロンの結び目からジョンの手が離れる。ハッとした恵は「離すな」と言いかけるが、その前に空いた右手を男の体温が包んだ。


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