フライングして滲みかけた涙が、白けて涙腺へ還っていく。ポカンと口を開いて間抜けな顔をする恵の額には、自分勝手な唇が何度もリップ音を立てて押しつけられた。

「はああ……まさかマスターが俺を抱き締めてくれるなんて! 今日は記念日ですね!」
「いや……」
「でもっ、俺も抱き締めたい派なんです! もうもう、ずっと抱き締めてたい……!」
「勘弁してくれ」
「ほっぺ意外と柔らかいんですよね……」

 何事もなかったかのように、ジョンは恵に頬ずりしている。拍子抜けした恵は押し返す気力もなく好きにさせていたが、あまりのしつこさと、ゴリゴリ当たる眼鏡の地味な攻撃に耐えかねて普段通り彼の腹を軽く殴った。

「俺の顔を摩擦熱で火傷させる気か」
「まさか! あ、でもそしたらお揃いの火傷ができますっ、すごいラブラブ……!」
「アホか心配させやがって……おら、離れろ」

 殴った部分をさりげなく撫でてやり、ジョンを押し離す。痛がるフリでヨシヨシをゲットしたジョンは上機嫌で腰を折り、下方から恵の顔を覗きこんだ。

「なんです? 心配してくれたんですか?」
「当たり前だろ。あんだけ毎朝名前訊いてきたくせに、急に訊かねえから」
「んん?」

 丸まった瞳が、あざとい上目遣いで瞬く。

「まさかー。俺が訊かないわけないでしょ」
「……あ?」
「ふふ。でもついでだからもう一回訊いちゃいます。マスター、今日は思い出しました?」

 緩み切っていた緊張の糸が不意に張り詰め、キンと嫌な音を立てる。恵は唇を震わせてジョンを熟視するが、彼が冗談や嘘を言っているようには見えなかった。

「まだ……思い出せて、ねえけど」
「ざーんねん。明日に期待、ですね」
「ああ……」

 ご機嫌な様子で恵の頬へキスをしたジョンは、「外掃いて来ます」と言って箒と塵取りを手に店先へ出て行く。
 一人残された恵は放心し、着実に迫りくる「そのとき」を思い、怯えていた。

「いなくなる、のか」

 気のせいではない。間違いなく、ジョンの記憶がたった今、一部切り取られて溶けた。
 この世界の無情さを改めて実感する恵は、震える手を握って焦燥感を押し殺した。


 それから数人の客が珈琲を飲みに来ては帰り、窓から差しこむ日差しがオレンジがかってきた頃。
 朝の動揺もすっかり落ち着き、恵はジョンと二人きりの店内で暇を潰していた。とは言え娯楽道具があるわけでもなく、手持無沙汰に煙草へ火を点ける。一応口に入れるものを提供する店であるから、喫煙時の定位置はカウンターの隅だ。

「んだよ、お前も吸う?」

 いやに生暖かい目で恵を観察する男は、表情を変えないまま首を振った。

「いえ、見てるだけで満足です」
「意味わかんねえぞ」
「煙草になりたいなあって」
「やめろ気持ち悪い!」
「マスターに吸われたい……」
「どこを! あ、いや言うな、絶対言うなよ」

 焦る恵をからかっているのか、ジョンは怪しげな笑い声を零している。
 調子に乗って茶化されてはかなわないから、半分ほどまで吸った煙草を灰皿代わりの器へ押しつけた。

「一目惚れって普通、中身知ったら幻滅するもんじゃねえのかよ」
「え、しませんよ? 俺のマスターは喋っても動いても最高でっす」
「勝手にお前のもんにすんな」

 反射的に否定はしたが、隠す気のない好意を真正面から見せつけられるのは悪い気分じゃない。むしろ込み上げるくすぐったさは、心地いい部類に入るだろう。
 相手は同じ身体の造りをした男であるのに特に嫌悪感はない。キスが不愉快でない時点で、恵は自分が異性愛者でない可能性に気づいていた。

「お前、男が好きなのか」
「さあ……?」
「わかんねえのかよ」
「あんま考えたことないです。好きになったのはマスターだけですもん」
「はいはい……」

 幼き頃の淡い初恋も学生時代の甘酸っぱい思い出も、恵を口説くためなら白紙にされてしまうらしい。
 なんとなく申し訳なさを感じて苦笑したとき、突然店の入口が乱暴に開かれる。
 目を丸める二人の視線が捉えたのは、不変の笑顔を浮かべた役人だった。

「やあ、お二人とも生きてるかい?」
「とっくの昔に死んでるわ。何度も言うけど、扉はもう少し静かに」
「今日はね、ちゃんとお仕事だよ!」

 役人は恵の話を聞かない。嫌がらせでないことは理解しているが、もはや溜め息も出ない。

「ああ、そう……今日は誰だ」
「この子さ」

 役人が店の中へ足を踏み入れると、背後にいた少女が見える。恵は人知れず息をのんだが、切なさを表に出すことはしなかった。

「ジョン、鍵閉めて閉店札出しとけ」
「もうですか? っていうかあの子、どうかしたんですか……?」

 ジョンは、無表情で棒立ちの少女、カナコを心配そうに見ている。説明すべきかどうか迷った恵は、「気にすんな」と答えた。
 カウンターを出て、役人の傍にいるカナコの肩を抱く。そして開かずの間となっている扉へ歩を進めると、ジョンが慌てたように恵の服を掴んで引き留めた。


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