ギョッとした恵は恐る恐る声をかける。

「おい? ジョン? 腹痛えか?」
「そんなわけないじゃないですか……死んだ後も腹痛あるとか地獄でしょ……」

 くぐもった声が返ってきてホッとする。どうやら唐突に浄化が進んで動けなくなったわけではないらしい。

「ならどうした?」
「……なんかムカつくんですもん」
「何が」
「マスターにそんな風に想われてる奴が。一番大事とか、羨ましくて吐きそう」
「大丈夫かお前……」

 伏せたときと同じくらい唐突に顔を上げたジョンは、納得がいかないのか拳でテーブルを叩く。

「だって! 隙がないと俺が迫れない!」
「迫んな」
「ヤです! 一目惚れですもん!」
「お前守備範囲広すぎな」
「むしろ狭いんです! マスターだけです!」
「はいはい」

 恵は淹れ終えた珈琲を飲みながら、仕方なく手を伸ばしてジョンの頭を撫でてやった。
すると男の拳が上下運動を止め、テーブルとの衝突音がなくなる。
 ふわふわとした茶髪は触り心地がよく、男であっても撫でることに苦はない。その上、嬉しそうにふやける表情は妙に恵を癒した。

「ふああ……もっと撫でてください……」
「もうテーブル叩くんじゃねえぞ?」
「はいい……」

 幸せそうなジョンとの戯れは、店内に響いたベルの音で終了する。
同じタイミングで入口へ顔を向けた恵とジョンは、本日一人目の客にそれぞれ「いらっしゃい」と笑みを浮かべた。


 ジョンが恵の元へ来て四日目の朝。
 今朝は一人で店に降り、久しぶりに自分の手で掃除をしていた。

「まあだ起きてこねえな……」

 ジョンは毎朝恵より先に起きて人間拘束具と化していたが、今朝はどうも起きられなかったようだ。幸せそうな寝顔に声を掛けるのが心苦しくて寝かせたままにしたが、そろそろ起きてもいい頃だろう。
 雑巾を洗って干し、寝坊助を起こすために二階へ上がる。
 寝室の奥に鎮座するベッドを覗くと、布団の中心がこんもりと盛り上がっていて、和やかな光景に思わず笑ってしまった。

「おーい、ジョン。まだ寝る気か?」

 不自然な山の天辺を軽く叩けば、中で身じろいでいるのか布団が動く。
 端からひょっこりと顔を出したジョンは、寝惚け眼で恵を見上げた。

「あれ……? おはようございますー」
「はよ。そろそろ起きろよ」
「はあい……」

 大きな欠伸を零し、ジョンが布団から這い出てくる。そし座る恵の腰辺りを、いつものように抱き締めた。

「マスター、掃除もう終わっちゃいました?」
「ああ」
「うあー、すみません」

 頭を撫でながら「いいよ」と返してやれば、くふくふと幸せそうなジョンが起き上がって伸びをする。
 ベッドを降りる背を眺めていた恵は、物足りなさを感じて吹き出した。

「今日は訊かねえの」

 サイドテーブルに置いていた眼鏡をかけ、振り返った男が首を傾げる。

「何をです?」
「俺の名前。訊かれねえと落ち着かなくなってきた」

 目覚めてすぐから、眠りに落ちる寸前まで暇さえあれば名前を問われていたのだ。たった四日で慣らされ、一回問われないだけで違和感を覚えてしまう自分が可笑しい。
 しかし茶化す恵とは対照的に、ジョンは青褪めて口を押さえた。ただならぬ雰囲気に、恵の笑みも固まる。

「……ジョン?」

 ジョンの呼吸が浅く早くなっていく。いつも恵を真っ直ぐに見つめる瞳は酷く狼狽し、あちらこちらへ泳いでいた。

「……み、ませ……っ」
「あ、おいっ」

 青白い顔に絶望感を滲ませて、ジョンが寝室を飛び出した。
 慌てて後を追うが、階下ですぐにその背を見つけて安堵する。だが微動だにせず立ち尽くしている姿に、焦りが生まれた。
 彼の宿した悲壮感の正体が何かはわからないが、原因が恵の一言であるのは理解できる。あんな顔をさせるつもりは露ほどもなかったから、声をかけるのを少し躊躇った。

「大……丈夫、か?」

 怖々と男の肩に触れるも、反応はない。
 恵は足先から這い上がるような不安を感じた。ついさっきまで、忘れていたのだ。
 ジョンの魂は、出会った時点で既に浄化が進んでいた。いつ「ジョン」でなくなっても、不思議ではないほどに。

「ま、まだ……だよな? ジョン……」

 この世界にやってきた魂と出会い、浄化されていく様を見守り、やがて別れる。その一連の流れは幾度となく繰り返され、恵はその都度切なさを覚えていた。
 だが今、目の前にいる男を失う想像は、切ないどころの話ではない。息が苦しく、胸が痛く、そして震えるほどに恐ろしい。
 恵は奥歯を噛み締め、反応のない男の背を抱き締めた。

「ジョン……ッ!」
「はいっ!」
「え?」

 ――背後から抱き締めたはずのジョンに、気づけば恵は正面から抱き締め返されていた。


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