「マスターの好きに呼んでくださいね?」
「まあ、お前がいいってんなら」
「はいっ。マスターは名前思い出しました?」
「だから、多分恵だって言ったろ」
「えー、多分じゃダメですよう」
「そうかよ……」

 上機嫌で揺らされ続ける恵は暫く好きにさせていたが、いくら待っても止める気のない男を引き剥がしてベッドから逃げた。

 朝はそこそこ忙しい。まばらではあるが珈琲を求めてやってくる客のため、店の掃除は毎日欠かせないからだ。
 住居になっている二階から店舗の一階へ降り、早速ジョンをこき使う。
 自称「じっとしているのが苦手」な男の強い希望で掃除用具を与えてみると、実によく動き回った。おかげで手の空いた恵は、カウンター内で暇を持て余す。

「よく働くなあ」
「はい、いつも言われます」
「かなり厚かましいけど」
「ありがとうございます!」

 断じて褒めてはいないが、嬉しそうな顔をされると否定し難くなる。恵は渋い表情をしたが、綺麗に磨かれた床を見て焙煎豆をミルの中へ流しこんだ。

「マスター、マスター」
「なんだ?」
「ここ開かないです。鍵穴ないですけど……」

 慣れた様子で豆を挽いていた恵は、顔を上げないまま「そこはいい」と短く告げる。

「そこ開かずの間だし、掃除の必要ねえから」
「そうですか……」

 食器棚の奥、死角になった位置から、不思議そうにジョンが戻ってくる。恵は着々と珈琲の準備をしつつ、目前の椅子を指した。

「珈琲淹れてやるから休憩にしろ」
「待ってました! 俺ね、珈琲好きなんです」

 カウンターに手をついて身を乗り出したジョンは、うっとりと甘えた顔で恵の手元を覗きこむ。まるで餌づけをするような心地で密かに口角を上げた恵は、黒い液体で満たしたカップを男へ差し出した。

「ほらよ、召し上がれ」
「……はあ、いい匂い。幸せです」
「大袈裟な。たかが珈琲だぞ」
「好きな人の淹れた珈琲は格別なんです」
「はいはい……」

 ジョンは一頻り香りを堪能してから、湯気が立つカップを口元へ運ぶ。すると眼鏡が一瞬にして曇り、視界を塞いだ。

「……外すの忘れてました」

 コントのような光景に、恵は込み上げる笑みを噛み殺す。しかしジョンはカップを口に当てたまま、曇った視線を恵に向けた。

「マスター、今笑いましたね?」
「……いいや?」
「わかるんですよ、そういうの。自分が視力いいからって、眼鏡を馬鹿にするんです」

 ふん、ふん、と鼻息を吹くせいで余計に湯気が立ち上り、一向に眼鏡の曇りは晴れない。
 さすがに可笑しさは限界を超え、恵は思い切り吹き出した。

「ぶ……っは、はは! お前それ、わざとだろ!」
「わざとです。へへ、マスターの大笑いいただきました〜」
「バッカじゃねえの……!」

 ひいひいと腹を抱えて笑っていた恵は、漸く落ち着いてきた頃に涙を拭いた。
 その間に眼鏡を外して珈琲に舌鼓を打っていたジョンは、ニコニコと肘をつく。

「そんなに笑ったら、衝撃で名前思い出したんじゃないです?」
「馬鹿、どんな仕組みだよ。まあ……でも、こんな笑ったの初めてだわ」
「ここにきてから?」
「ああ。昨日も言ったけど、死ぬ前のことは憶えてねえからな」

 言葉や知識、常識などは染みついているのに、肝心の経験だけがない。視界の中心だけを隠されているような不快感には、かなり早い段階で慣れた。

「死ぬときに頭でも打ったんだろうなあ」

 適当な憶測を呟き、自分が飲むための珈琲を淹れ直す。ジョンは暫くその所作を眺めていたが、落ち着いた様子で口を開いた。

「マスターはこの世界に来たとき、どんな感じでした?」
「あー、そうだなあ……」

 たったの一年と一日前の記憶を、少しずつ引っ張り出す。久しぶりに思い出すものだから、やけにチクチクと胸の奥が痛んだ。

「でかい交差点の真ん中に立ってたよ。役人が来て、名前訊かれたけど答えられなかった」
「何一つ憶えてなかったんですか?」
「ああ。ただ……」

 あの日と同じように、両手を開いて見下ろした。一年経ってもなお、胸に迫る感情は変わらない。

「一番大事なものを置いてきたような、当たり前にあったものを取り上げられたような気がした。みっともねえけど、涙が止まらなかったよ。何かが心配で仕方なくて、不安だった」
「……ここにいるのは、つらい?」

 気遣わしげなジョンに笑みを返し、恵は緩く首を横に振った。
 根本的に「大事なもの」が手の中にないことへの絶望感はある。付随する喪失感と寂しさも、誤魔化しようがない。
 しかしこの世界で目覚めたときから変わらない、救いの感情もあった。

「誇らしかった」
「え……」
「申し訳ねえし寂しいけど、自分が死んでることに対して、つらいとか悲しいってのはないんだ。ただ誇らしい。なんでだろうな」

 あっけらかんと言いのけた瞬間、ジョンはテーブルへ伏せた。


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