それは「浄化されない者」としての役割を担う恵でも、初めて目にする、奇跡だった。
 一度、二度、三度と男が瞬く。キョトンとした眼差しを一身に受ける恵は、眼鏡の奥にある澄んだ黒目の中で間抜け面を晒していた。

「お前……嘘だろ? 俺のことわかるか?」

 男が頷く。その動作は間違いなく意思の疎通を証明するもので、恵は堪らず強面をクシャっと崩して笑った。

「そうか! すげえなお前、話せるか?」
「ひ……、れし、た」
「ん?」

 小さく掠れた声を聴き取るために、恵は男の口元へ耳を近づける。すると男も同じように距離を詰めたのか、耳の縁に柔らかい感触が当たった。
 その、瞬間の出来事だった。

「一目惚れしました……!」
「あ?」

 妙にはっきり吹きこまれた宣言に首を傾げたのも束の間、恵はガッシリと男の両手に側頭部を掴まれていた。
 至近距離には、表情を取り戻して輝く男の顔がある。

「カッコいい! ドストライク! 付き合ってください、ってか名前教えてください!」
「……!?」

 甘い目尻が赤らんだところまでは認識できた。しかし男が強引に唇を重ねてきた途端、正常な思考は溶けていく。熱い舌が腔内を弄り始めると、呆然を通り越して無になった。
 抵抗がないのを受け入れたものと勘違いしたのか、男は濡れた唇を舐めてキスを解く。

「はあ……ふふ、煙草の味……可愛いです」

 その満足そうな酔っ払い顔は、十分に恵を冷静にさせる。力無く垂れていた拳を強く握り締めると、好き勝手された苛立ちが沸々と湧いた。
 先にキスをしたのは恵だが、男は舌を入れた。その時点で罪の重さは男に傾いて然るべきだろう。

「こ、の野郎……」
「はいっ、あ、名前教えてくれます?」
「まずは自分から名乗るもんだろうが!」

 恵は思わずゲンコツを男の頭に落とす。
鈍い音と共に頭を押さえた男は、しゃがみこんで店外にまで響く奇声を上げた。


 恵が目覚めたのは、夜らしき闇が明け、あるはずのない太陽が顔を出した頃だった。
 窓側に身体を向けているせいで、眩しすぎる朝日が視界を白ませる。死んでいるのだから睡眠など必要ないはずだが、本能なのか、暗くなると眠気には抗えない。
そして微睡む最中の太陽光は鬱陶しく、顔を顰めた恵はシーツの中で足を動かした。

「……あ?」

 だが、何かが足に絡まりついて動かせない。
すると耳の傍で、誰かが吐息で笑った。

「おはようございます、マスター」

 振り向いてすぐ、爽やかな笑顔の男と目が合う。暫し状況を整理するために見つめ合った恵は、男の顔面を片手で鷲掴んだ。

「お前の寝床は別に作ってやったはずだな?」
「いたっ、痛いですマスターっ」
「なら俺の足と腹を解放しろ。動けねえだろうが」

 足だけでなく、腹までも男がホールドしている。妙な身体の強張りは、寝返りが打てなかったせいに違いない。
 しかし男は拘束を解こうとせず、呻いて恵に顔を掴まれたまま言い訳を始めた。

「だ、だって、一人で寝るの怖くて!」
「子どもか」
「そこにマスターが寝てるから!」
「そこに山があるから、みたいに言うな」
「うわああん、ごめんなさい、寂しかったんです……!」

 嘘としか思えないが、恵は溜め息を吐いて男の顔を離してやった。
 男が浄化の進んでいる魂であることに変わりはない。平然と話し、何故動けるのかという疑問はさておいて、不安定な状態の男を突き放す気にはなれなかった。

「はあ……もうわかったから、とりあえず離せ。これじゃあ起きられねえだろ」
「……怒ってません?」
「ああ」
「じゃあ今夜も一緒に寝ていいです?」
「……ああ」
「後で珈琲淹れてくれます?」
「ああ」
「キスしていいですか?」
「ああ。いや駄目だ、っ」

 流れ作業のように頷いてしまったときには、男は恵の頬へ挨拶のようなキスを済ませていた。腕と足は解けたが、脱力感で起き上がれない。

「まーたやりやがったな……」
「へへ。隙ありです。起きるの手伝いますね」

 嬉しそうな男は身体を起こし、恵の両腕を引いてベッドへ座らせる。「おおっと倒れちゃう!」と、わざとらしく恵を抱き締める過程には呆れ笑いしか浮かばなかった。

「お前アホの子か……」
「お前じゃないです。昨日名前つけてくれたじゃないですか」
「いいのかよ、ジョンだぞ」
「はいっ!」

 男は昨日、何度訊ねても名前を口にしなかった。彼にも事情があるのだろうと思いはしたが、共に過ごすなら呼べる名前がないのは困る。仕方なくねだられるまま渾名を考えたとき、一番に浮かんだのが「ジョン」だった。
 いくら駆け寄ってくる姿が尻尾を振る犬に見えたからと言って、あまりに安直だ。恵は昨夜と同じように後悔して困り果てるが、男は気にしていないのか恵を抱いたまま左右に身体を動かしている。


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