歩を進めながら、名残惜しさを覚えて振り返る。闇は空腹を訴えて慟哭するように大きく口を開き、みるみる内に広がっていった。
 再び落ちた涙の行方を、確かめることなく前を向く。そうしないと、狂おしいほどの寂しさで動けなくなってしまいそうだった。

 ***

「さあマスター、今日こそは真実を教えてね」

 可愛らしい胸元のリボンを揺らした制服姿の少女は、恵が差し出した珈琲に三杯目の砂糖を溶かした。

 ――丁度一年前、恵は死んだ。自分が誰で、何故死んだのか思い出せないまま、今は名もなき世界で喫茶店を営んでいる。
 こぢんまりとした店内は、カウンターに脚の長い椅子が三脚あるだけで殺風景だ。テーブル席を置けるだけの空間は残っているが、今のところ模様替えをする気はない。死者の魂が暮らすこの世界では、物好きのために珈琲を淹れることしか仕事がないせいかもしれない。

「真実って言われてもなあ」

 カウンター内で手持ち無沙汰にグラスを磨く恵は、溶かされる五杯目の砂糖に苦笑する。

「俺はその砂糖の量が気になって仕方ねえよ。カナコ、太るぞ」
「大丈夫、死んでるから!」
「なんで自信満々なんだ」

 二カ月ほど前から頻繁に来店するカナコは、高校で新聞部に入っていたそうだ。年若い彼女は短命を嘆くより、この世界の存在を解き明かすことへの探求心に燃えている。
 甘い珈琲を美味そうに飲み、彼女が広げたのは見慣れたピンクのルーズリーフだ。

「えー、まずはマスターさん。あなたはこの世界に来てどれくらい?」

 唐突に演技がかったインタビューが始まる。
 恵は少女の微笑ましい背伸びを払いのけることなく、手を止めて向き直った。

「今日で丸一年になるな」
「この一年で知ったことを教えてくれますか」
「何が訊きたい?」
「そうね……やっぱり、この世界が天国なのか、地獄なのか、かな」
「どっちでもねえな。ここは死んだ魂が、新しい身体に入るまでを過ごす場所だから」

 恵の視線の先で、カナコは真剣にノートへメモをとっている。終えると顔を上げ、興味津々に恵を見つめた。

「いつ新しい身体に入れるの?」
「魂が浄化されてから、だな」
「浄化って何?」
「魂を新品みたいに綺麗にすること」
「いつ浄化されちゃうの?」
「さあな。それは俺にもわからねえ」

 少女の純粋な瞳が、不満げに半分閉じる。

「そこが肝心なのに……どうやって浄化されるのか知ってる?」
「まあ」

 今度は目を輝かせ、カウンターに身を乗り出す。華奢な手は興奮気味にノートを叩いた。

「そうよ、そういうのを知りたいの。教えてマスター、どんな風に浄化されて、どうなるのか。私もいつか浄化される?」

 このキラキラした視線は何度体験しても慣れない。恵はよく威圧感があると称される凛々しい目を眇め、ニィッと口角を上げた。

「そらお前、自分で体験しねえといい記事になんねえぞ」
「あ……それもそうね」
「だろ? ジャーナリストなら、自分の目で見たものを書け。こんなわけわかんねえ世界の記事書くなら、信憑性がねえと」

 素直で猪突猛進型な少女の性格は、二カ月で随分掴めてきた。真実と正義はイコールなのだろう。眩しくひたむきなカナコは、恵の煽りを真正面から受け止めた。

「そうよね! 私はここで過ごした記憶とノートを持って生まれ変わって、絶対、超有名な記者になるの。それから……」

 夢を語る少女の瞳が宙をさ迷い、不意に焦点を失った。騒がしく賑やかな明るい声も途切れ、店内には不安なほどの静けさが漂う。
 恵は彼女の手から落ちかけたペンを取り、ノートの上に置いた。すると恵の行動に一切の感心なく、カナコが席を立つ。

「カナコ」

 呼び止めても、小さな背は反応しない。そのまま店から出て行くカナコを見送って、恵は置き去りにされたノートを回収した。

「もうそろそろ、だな……」

 ついさっきカナコが書いたページを破り取り、丸めて捨てる。
 こうしたインタビューは何度目かに彼女が店に来て以降続いているが、この十日ほどでそのほとんどがカナコの記憶から消えた。搾りカスのように残った願いが原動力となっているのか、取材は繰り返されるものの最後にはノートを置いて出て行ってしまう。

 この世界は、存在するだけで魂を自然に浄化する。どうやらそのプロセスがないと、前世の記憶が後世に引き継がれてしまう確率がぐんと跳ね上がるのだそうだ。
浄化は早ければ数週間、長くても三カ月が経てば終わり、空っぽの魂になってから新しい身体へと運ばれる。
 カナコは今、自然浄化が終わる寸前の不安定な時期だ。恵は会う度に虚ろになっていく彼女がせめて自分の変化を悟って怯えないよう、記憶に残らない痕跡を処分し続けている。
 ルーズリーフのページが減っていくにつれ、言いようのない切なさが胸を焦がした。

「……手のかかるやつだよ、ホント」

 一人呟いたそのとき、近づいてくる足音に気づいた。扉越しでもわかる喧しさに顔を顰め、それが客でないことを悟る。
 数秒後、ベルが壊れそうな音を立てて扉が開かれた。


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