名もなき世界に口づけを 1


 耳の中で木霊して掻き消えた声は、泣き濡れて掠れていた。それが誰で何を言っているのか、何故泣いているのかも、さっぱりわからない。
 閉じていた瞼を開くと、そこは片側三車線の大きな道路が交わる交差点だった。明滅する信号機、くすんだ標識、歩道橋。順に眺めて立ち尽くす。奇妙なことに、車はおろか人もいない。

 水分を含んだ分厚い雨雲を見上げ、ここはどこか、と考えた。
 しかし明らかになった答えは、自分が誰なのか憶えていないことだった。手の平を見下ろしても、まるで他人のもののようだ。
 不可思議な感覚を静かに確かめていくと、どうしてか両目から涙が落ちる。かさついた肌色の上には、小さな小さな海ができた。
 この手で、何かを必死に守っていたはずだ。それが何かはわからないが、最も大切なものであることは間違いない。だが何も持っていない手を見つめ続ける内に、半身を失ったかのような喪失感と、絶望的な寂しさ、そして視界を塞がれるような不安感に襲われる。
 背後に気配を感じたのは、指の間から零れた海がアスファルトを濡らしたときだった。

「やあ。キミのお名前は何かな?」

 振り返ると、全身黒ずくめの怪しい男が一メートルほど後方で笑っていた。顎下から足首までをすっぽりと隠すコートだけでなく、髪や爪まで黒いせいか病的に白い肌が異様に目立つ。一見すると好青年じみた雰囲気だが、男の糸目と赤い唇はよく見れば微笑みの真似事だった。
 僅かに恐怖を感じて口を閉ざすと、男は肩を竦めて明るい声を上げる。

「イヤだねえ、僕を見た人間は大抵同じ顔をする。僕はそんなにブサイクかい?」
「別に……顔が怖え、だけ」
「キミに言われるのは納得がいかないね」
「うるせえわ」

 鼻声混じりの悪態に、男は後ろ手を組んでニンマリと笑う。

「ところで、キミのお名前は?」
「……わかんねえ」
「そう。じゃあ置いてきてしまったんだね」

 驚いた様子もなく言いのけ、「ついておいで」と背を向けられる。状況整理が追いついていない不安感から、思わず足を踏み出して男の腕を引き留めた。

「待てよ……何を、どこに置いてきたって?」

 男はこちらへ首を振り向かせ、変わらぬ笑顔のまま言う。

「キミがもう戻れないところだよ」
「ここはどこだ」
「ここに名前はないんだ」
「はあ? 俺は……なんでここに?」

 その問いへの答えは少し間が空いた。男は身体ごと振り返り、引き留める手に触れる。
 甲に添えられた指先は鳥肌が立つほどに温度がなく、反射的に腕を離してしまった。

「つ、めてえ……っ」
「死んだからさ」
「っ、は?」
「ついさっき、キミは死んだんだ」

 腹に穴が空くような衝撃が言葉を奪った。
 反射的に開いた口からは、呻きに似た低音しか出てこない。
 だが頭のおかしい男の妄言として片づけるには、見える景色も、反発のない胸中も不自然すぎた。否定しようとすると、己の内側から誇らしげな肯定が聞こえる。
 自分が誰かも知らないくせに、得意げなその主張を疑う気にはどうしてもなれなかった。

「ならここは天国か? それとも地獄?」
「どちらでもないよ。ここはね、死んだ魂が新しい身体に運ばれるまでの時間を過ごす世界なんだ。ああ、でもキミは記憶がないから浄化されないね」
「浄化?」
「ほら、行こう。ここはとても危ないよ」

 男は今度こそくるりと踵を返し、軽やかな足取りで交差点を突っ切って行く。
 ぼんやりと見送りかけ、慌てて後を追う。男を見失えば、ここからどこへも行けなくなる気がした。こんな何もない道路で置き去りにされてはかなわない。
 しかしふと、視界の端に亀裂が入って立ち止まる。立ち並ぶビルの壁に黒い線が走り、注視すればそれが伸びてゆく。そしてビルの向こう、地面と空の境界線では、黒ずんだ禍々しい口が開いていた。

「なんだ……?」
「早くしないと一緒に壊れてしまうよ」
「でも、街が」
「街じゃないよ。これは、キミのなけなしの記憶さ。ほら早く、急いで」

 男は急かすくせに、無理に手を引くでも先に歩き出すでもなく笑っている。変化のない笑顔は出会ったばかりなのに見飽きてしまい、視線を崩れかけている景色へ戻した。
 ここが記憶なのだとしたら、何故壊れるのだろう。どんな思い出があるのだろう。この罪悪感は一体、誰に向けてのものなのだろう。
 一緒に壊れてしまえば、どうなるのだろう。
 疑問だけで埋め尽くされた胸中に、何かが浮かぶ。深い闇を見つめながら口を動かしたのは、無意識だった。

「恵」

 その声を拾い上げ、男は手を打ち鳴らす。

「キミはメグミっていうんだね? よろしく、僕は役人と呼んでくれればいいよ」
「それがお前の名前?」

 役人は首を横に振る。そして友人を遊びに誘う小学生のような気軽さで、恵の腕を抱えて歩き出した。

「僕はこの世界で魂を運び、巡らせるだけの概念だよ。概念に名前はないんだよ」

 歌うような言葉が鼓膜を上滑りしていく。
正直言って理解不能だったから、恵の感心は壊れゆく記憶の中心に注がれていた。

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