22

 連れて逝くことなんて、できるはずがない。
 死を目前にした美貴春は、彼の生しか望んでいなかった。生きてさえいてくれたなら、この死には意味が生まれると本気で思った。
 視界が狭まっていく。必死で血液を循環させていた心臓も疲れたのか、歩みを鈍らせていくのが手に取るようにわかった。
 恵は泣き喚くのを止めた。美貴春の最期がひたひたと近づいてくるのを、すぐ傍で感じ取ってしまったのだろう。

『……っいいです。どうぞ、忘れてください』

 恵がこんなにも泣いているのに、おかしな方向に曲がった腕では抱き締めてやれない。
慰めたくても、口から出るのは逆流した液体だけだ。

『もう一度口説いて、また、好きになってもらいます。俺、しつこいんで、絶対、……』

 その先は聞こえなくなった。


 ふつ、と映し出されていた記憶が消え、巡り廊下には不気味な静寂が舞い戻った。
 そして現れたのは、始まりの扉。膝が震えそうな恐怖が今日は一段と酷い。
 それでも恵は、必死で笑い声を上げた。

「恵。見たか。俺、お前を庇って死ぬって決まってた」
「……うん」
「カッコいいだろ。好きな奴守って死んだんだぞ。こんな誇らしいこと、ないだろ……っ」

 この世界にやってきたときから変わらなかった誇らしさに、漸く合点がいった。
 亀裂から徐々に崩れていく交差点で呟いた名前も、役人に連れて来られた恵にキスをしてしまったことも、他の人の比ではないほど、彼の浄化を目の当りにして恐怖を感じてしまった理由も、全て納得できる。
 当然の反応だったのだ。学生時代からもう十年は傍にいた。この先も共に暮らし、平々凡々に歳を食っていくのだと確信していた。
 全ての記憶が戻り、情報量の多さに驚く頭がクラクラと揺らぐ。恵の肩をどうにか抱いたまま、美貴春は温い涙の中へ座りこんだ。

「ごめんな。生きててほしいって、俺の我儘だったな。俺の勝手で、怖い思いさせたな」

 生きていてほしかった。その思いは全て思い出した今でも変わらない。けれどあの事故の後、四十九日間も一人で苦しんだ恵を思えば彼の選択を叱る気にはなれなかった。
 恵はゆっくりと瞬いていた視線を、美貴春の顔に向ける。脱力して涙に浸っていた手が、美貴春の頬を倦怠感たっぷりに撫でた。

「ごめん、ね、ミキさん……わかってたよ、でも……どうしても、こわかった」
「馬鹿野郎」
「ふふ、……おれのミキさん、おれの……やっとあえた」

 腕の中に飛びこんできた男を、美貴春は両腕で抱き留めた。柔らかい茶髪に鼻先を埋め、懐かしい香りで肺を満たす。
 昔から美貴春は恵に甘い。叱責するならば、彼が一人になっても大丈夫なよう育ててやれなかった自分に対してだ。二人の倫理観はとっくに、定められたモラルに背を向けていた。

「そうだな。仕方ねえ。間違ってても、愛してるから」

 微かに吹き出したとき、水をかき分ける音がした。
 振り向くと、重そうなコートの裾を軽く持ち上げた役人が近づいてくる。
 恵は予想外の乱入者が声の聞こえる位置まで来てから、呆れ笑いを投げかけた。

「入れたな」
「入れたよ。飴ってとても甘いんだねえ」

 コロコロと飴を転がす役人は、彼らしくない、自然な笑顔で口元を綻ばせる。

「見送りがないのは寂しいだろう? それに僕はまだ、友人の本当の名を呼んでない」
「ここで出会った役人が、お前でよかったよ」

 美貴春はぶっきらぼうにそう言って、恵を抱えたまま立ち上がる。すると役人はどこか焦りを滲ませて引き留めた。

「行くのかい」
「このまま扉をくぐれば、記憶を持って生まれ変われるかもしれねえんだろ」
「そうだけど、おやめよ。痛いかもしれない。苦しいかもしれない。どんなことが起こるのか、入ったことのない僕にはわからない」
「馬鹿言え、それをわかってて、お前は見送りに来たんだろうが」

 魂の輪廻を嫌がる役人は、概念として矛盾している。だが美貴春はそんな彼を、以前より好ましく思った。

「俺が何をしたいのか、もう知ってんだろ。お前はそれを止めない。違うか?」
「……違わないよ。僕は概念だ。早く、魂を次の世に運ばせておくれ」

 美貴春はその言葉が真意でないことを悟っていたが、指摘することはなかった。追及を望まれていないことも知っていたからだ。
 役人は美貴春の肩で静かに目を閉じる恵へ矛先を向ける。

「メグミ君、キミもそれでいいかい?」

 恵が眠そうに半分だけ瞼を開く。やや背中を丸めて美貴春に身体を預けたまま、役人を視線で捉えた。

「僕はキミに伝えたね。キミの魂は、もう使い回せないだろう、と」

 聞き流せない話題に食いついたのは、恵ではなく美貴春だ。眉を寄せ、怪訝な声で疑問符を口にする。

「ちょっと待てよ、それ、どういう……」
「長年使い回された魂はどうしても、綺麗に浄化がしきれないんだ。そういう魂の持ち主に訊くんだよ。消滅するか、この世界で暮らすか選んでいいよ、とね」

 ここに来て知らされた新しい事実が、美貴春を動揺させる。
 追い打ちをかけるのは、苦しそうに胸を押さえる役人だった。


名もなき世界トップへ