21


 ――たまに喧嘩して、その日の内に仲直りして、そんな風に美貴春と恵は一緒に暮らすようになった。
 掃除をするのは恵で、食事を作るのは美貴春。あまり凝ったものは作れないが、恵はいつもうっとりと目を細めて美貴春の料理を食べていた。

『そんな美味いもんでもないだろ』
『美味しいですー。これ、食感楽しい。レンコンか何かですか?』
『まあな。味わかるか?』
『それはあんまり』
『後で珈琲淹れてやろうな』

 付き合ってから、恵が味覚障害であることを知った。彼は覚えていないらしいが、幼少期に親から虐待を受けて施設で育ったそうだ。
 当時のストレスの後遺症なのか味覚が鈍く、けれど味の濃い食事ばかりでは身体を壊すのではと不安になった美貴春は、香りや食感に気を遣うようになった。
 それでもお気に入りの濃い珈琲だけは、一日一杯、必ず淹れて飲ませてやった。

 ――恋愛感情は三年しか続かないと言うが、恵の愛情は年々増しているように思えた。

『ミキさん、死んじゃ駄目です……っ』
『いや、ただの盲腸だからな? もう手術終わったからな?』
『ミキさん……!』

 点滴の刺さった腕へさりげなく頭をすり寄せ、恵はしとどに泣いている。
 プライベートを守るカーテンの向こうで、担当看護師が狼狽えているのが見えた。しかし美貴春の優先事項は術後の処置より、本気で泣いている恵を甘やかすことだった。

『ほら、来い。慰めてやるから』
『ミキさんが死んだら後追いますから!』
『お前粘着質な……』

 美貴春は涙で汚れた不細工な顔を見て、置いて逝くくらいなら連れて逝こう、と思った。
 一人にする日を想像すると、不安でオチオチ棺桶にも入っていられない。
 美貴春が「お前も来い」と言えば、恵は喜んでついてくる。生い立ちのせいか自分だけが独り占めできる愛情に貪欲な恵は、美貴春がいなければ生きていけないだろうから。

 そんな風に、恵の未来を軽んじてしまった天罰だったのだろうか。
 美貴春は次いで浮かび上がった記憶の舞台が、雨の降る大きな交差点であることに諦念を抱いた。片側三車線の道路には、大勢の人と車が規則正しく交互に雪崩れこんでいく。

「そうか……ここだったんだな」

 呟くと、恵がゆったりと美貴春の肩に頭を置いた。薄いTシャツが少しずつ、温かな想いで濡れていく。

「……こわい?」

 これから何を見るのか、粗方予想はついている。けれど美貴春は首を横に振った。
 死に際を知ることは怖くない。そんなことよりも、美貴春の死を見てしまう恵が、自らの涙で溺死してしまうんじゃないかと不安が過ぎった。

「大丈夫だ」

 肩にある男の頭にこめかみを預け、傘を差して信号待ちをする自分達を見つめた。

 ――それは朝から土砂降りが続く、久方ぶりに休日が重なった日。昼間であるのが嘘のような薄暗い雨雲の下、学生時代に何度も通った懐かしい喫茶店へ向かう途中だった。
 速度超過の車が、雨と傘のせいで視界不良な交差点を渡る歩行者に突っこんだ。甲高い悲鳴と、耳障りなブレーキの音が人混みを恐怖で強張らせる。
 運転手は慌ててハンドルを切ったようだが、濡れた路面をスリップした車はコントロールを失っている。大きなワゴン車がこの後、どんな軌道を描いてどこにぶつかって止まるのか、美貴春は冷静に分析して悟ってしまった。
 反射神経の鈍い恵を連れて二人で避けきるのは、空でも飛べない限り至難の技だろう。
 そう思ったときには、恵の腕を掴んでとにかく遠くへ押し飛ばしていた。

『……ミキさん』

 打ちつける雨の匂いに、錆び臭さが混ざった。さっきまで全身を支配していた激痛も段々と薄れていく。

『投げて……ごめん、な、痛いとこ、ねえか』

 抱き締められるまま恵の腕に身体を預け、愛しい存在を五感の全てで味わった。
 無茶苦茶な力加減の腕がくれる苦しさも、匂いも体温も、最期まで愛していたかった。

『連れていこう、って……思ってたけど、やっぱ、来んな……まかり間違っても、後追いとか、すんなよ』

 激しく泣き喚いていた恵が、弾かれたように美貴春の肩口から顔を上げる。そして千切れそうなほど、首を横に振って拒絶を示した。

『嫌、嫌です、無理です、ミキさんがいないとこで生きれない……っ』
『アホか、……いつか、ちゃんと寿命で、来いよ、怒るぞ』
『じゃ、あ……っあなたが死なないで! 俺なんか庇って、先に逝かないで! あなたがいればそれでいいからっ! お、お願いします、なんでもする、するから、ぁ……っ』

 遠くから聞こえる耳障りなサイレンが、早く止むように願った。できるならば周囲の野次馬も、もう少し声を潜めてほしい。
 静かにしてくれないと聞こえない。恋人の声が、しゃくり上げる悲痛な泣き声が、雨と雑音でかき消されてしまう。

『お、前が……来る気、なら、……全部、忘れて、……やるか、らな』

 この期に及んで「大丈夫だ」なんて見え透いた嘘は吐けなくて、苦し紛れに彼を脅した。


名もなき世界トップへ