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 それきり言葉を交わすことなく、恵の人生を辿って歩く。幼少期から始まり、中学高校と順を追って見せられる記憶が、その都度恵の中に戻ってくる。この記憶はきっと、それほど経たず古いものから巡り廊下に浄化されていってしまうのだろう。
 だが、それで構わなかった。二人で過ごした記憶を少しでも長くジョンに見せてやれるなら、恵は喜んで古い記憶を廊下に差し出す。
 そう思える自分が誇らしかったから、込み上げてくるものを目頭から恥ずかしげもなく垂れ流した。
 足首までだった涙の量はいつしか、ふくらはぎに達している。二人分の涙は深く、そしてほんのり温かかった。

「……ああ、ほら。ジョン、見ろよ」

 恵が立ち止まるとジョンも倣う。
 二人が見つめる先には、大学生の恵がいる。
 そして傍には「先輩!」と満面の笑みで寄り添う、ジョンの姿があった。
 忘れていたけれど、失くしてはいない。これは彼と過ごした、大切な日々の記憶だ。

『今日こそは名前、教えてくれますよね?』
『なんだその自信』
『だって今日は、運命的に先輩と俺が出会ってから三カ月記念日です!』
『ああ、お前のストーキング歴と同じ日数な』

 ジョンからの熱視線も気にせず、握り飯を頬張る恵はもう随分絆されている。
 三カ月も纏わりつかれれば男が傍にいることに慣れ、健気な姿がなんとなく愛らしいものに思えていた。だからこの日、張っていた意地を捨てて漸くヒントをやった。

『つーかお前、人に名前訊く時は自分が先に名乗るもんじゃねえの』
『それもそうですね。俺は上条恵です』
『恵な。俺は木場。木場美貴春』

 暫しキョトンとしていた大きな男が、人目も憚らず盛大に泣き始める。
 すると隣にいるジョンも、すん、と鼻を鳴らした。

「うん、そう……うれしくって……」
「知ってる。お前は……恵は、昔っから涙脆かった」

 この一年で役人に何度も呼ばれた名詞なのに、ジョンのものだと認識して口にすると胸の奥が震えた。滲む涙を袖で拭うと、恵は力無い笑い声をどうにかこうにか絞り出す。

「ミキさんも……でしょ」
「うるせえわ」

 公衆の面前で男泣きする恵を、必死で慰める自分から視線を剥がす。白いばかりで面白味のない巡り廊下は先々まで、美貴春の記憶で彩られていた。
 そんな賑やかな場所を、二人で時間をかけて進む。時折、膝から崩れ落ちそうになる恵を抱え直して、一歩一歩、確かに。

 ――いつしか下の名前で呼ばれるようになって、美貴春も恵を渾名で呼ぶようになった。
 週末でバイトがない日は示し合わせたわけでもないのに、一緒に過ごした。美貴春の部屋には、恵専用の座布団とクッションが当たり前に存在していた。

『どうしてミキさんは、俺をジョンって呼ぶんですか?』
『お前ワンコみたいだからなあ』
『わん』
『馬鹿。それに恵ちゃんって皆に呼ばれてんの、嫌なんだろ』

 無意味に呼んでも恵は嬉しそうに破顔するから、優越感が胸を満たしていた。
 人懐っこい恵は友人がたくさんいた。「誰も呼んでいない渾名を探したら犬みたいになった」とは、照れくさくて結局言えなかった。

 ――発信履歴が恵の名前ばかりになって、傍にいないとき無意識に名前を呼びかけて、美貴春はいよいよ白旗を上げた。
 どちらかと言えば厳つい見た目の美貴春を、恵は「夜遅いから」という理由だけでバイト先まで迎えに来る。そんな後輩と並木道を歩く時間を、美貴春は愛しく感じていた。
 切り出すには十分な理由だった。

『そういや、最近告白されてねえな』
『はい! 押して駄目なら引いてみろって言われたんです。どうです?』
『馬鹿か』
『駄目でしたか……』

 しゅん、と落ちこむ男の肩に、美貴春は自分の肩を少々乱暴にぶつける。

『百五十回を過ぎた辺りから、二百回目で落ちてやってもいいかって考えてたんだけど』
『え!? それホントですか!? あ、じゃあ今から二百回目まで一気に……後何回でしたっけ?』
『一回だよ、馬鹿』

 後一回だなんて、本当は嘘だった。
 すぐに「俺も」と言ってふわふわの頭を腕に抱いてみたくて、バレるのを承知で嘯いた。
 結局はどこまでも素直な恵が疑いもなく「大好き」と言って笑うから、吐いた嘘を一生かけて償おうと決意することとなった。

 ――恵は付き合い始めてからも無鉄砲さが治らなくて、よく美貴春をヒヤリとさせた。
 身体は丈夫なのに運動神経が悪くて鈍臭いから、美貴春の家の救急箱は常に恵のために存在していた。
 包帯でガーゼを固定した美貴春は、早く治るようにと祈りをこめて彼の手を撫でる。

『割れた皿を素手で拾い集める奴があるか、馬鹿』
『すみません……ミキさんのお気に入り……』
『んなもん別にいいんだよ。お前の手が図面引けなくなったらどうすんだ。いつか住む家の設計すんのが夢なんだろ』

 恵は大卒後に工務店で働きつつ、一級建築士の勉強をしていた。二人で暮らす家は自分で設計したいのだと、夢に向かってひた走る姿はとても眩しくて、愛しかった。


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