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 彼の虚ろな目は、手作りらしき木製の位牌を見つめている。その隣には写真立てがあり、幸せそうなジョンと恵が映っていた。
 マグカップを満たす水、同じ銘柄の吸い殻ばかり入ったガラスの灰皿、線香立て。火を点けたばかりなのか、煙をくゆらせる線香はまだ長い。
 それがジョンなりに整えてくれた、恵のための仏壇だと自覚するのは簡単だった。
 ポケットの中で鳴り始めた携帯を取り、電話を受けたジョンが小さな声で「はい」と言った。そして無言になる。やがて何も言わないまま電話を切って床へ落とし、位牌の前に座った。
 恵は頼りなく丸まった背中を見つめ、唇を噛む。
 役人は言った。白紙の人生を持つ魂は心が壊れていると。そして、巡り廊下は幸せな記憶を見つけて映し出してやれない。映し出せるのは――最も苦しんだ瞬間だけだと。

「こんなの……あんまりだろ」

 声にならない不満が吐息と共に零れると、首元でジョンが身じろいだ。本能的に、見たくないものから逃げようとしているのだろう。

「いい、見るな。その分俺が見てるから」

 得体の知れない恐怖が足先から這い上がってくるものの、恵はジョンの記憶から目を逸らさなかった。
 その内、生気が抜けたように座りこんでいたジョンが位牌を手に取る。

『知ってますか。今日で、四十九日なんです。そろそろあなたは、天国についた頃ですか?』

 ほと、ほと。落ちていく涙が、位牌の木色に濃いシミを作る。

『色んなことがありました。たくさん、あなたの思いを踏みにじらずに生きていけって、励ましてもらって……それと同じくらい、なんで、お前が生き残るんだって、……でもそう言った人は、あなたを失ったつらさに耐え難いからだって、俺もわかってて』

 濡れた部分を一生懸命に袖で拭うジョンは、降り止まない涙に疲れたのか、位牌に額を押しつけた。

『俺には思い出があるから、大丈夫……そう思ってたん、ですけど』

 詰まる息を吐き出したジョンの声に、嗚咽が混じり始める。く、く、としゃくり上げる子どもみたいな泣き方が憐れで、そうさせている写真立ての中の自分に憎しみが湧いた。

『あなたのお母さんが……いつも、言ってくれるんです。全部忘れて、幸せに生きなさ
いって。もういいのよ、あなたは悪くないのよ、って、泣きながら、何度も……』

 嗚咽が不自然に止まる。静けさが漂ったかと思うと、ジョンは灰皿を掴んで壁へ打ちつけた。衝撃音と割れる音がして、ガラス片と吸い殻が仏壇の上へ散る。
 恵にしがみつくジョンが、怖がって腕の力を強めた。

『そんなの、無理に決まってるのに。あなたがいないと、俺に意味なんてないのに。初めての、たった一人の、俺の家族なのに、そんな、優しくて残酷な、こと……っ』

 消え入りそうな声で絶望を訴えるジョンは、位牌を元の位置に戻す。そして写真に映る恵を指先で撫でた。

『時々わからなくなるんです。本当に、あなたは俺の恋人でしたか? ここで一緒に住んでいましたか? 全部、俺の妄想ですか?』

項垂れる背中は、ノイズに混じって掻き消えてしまいそうなほど震えている。

『俺が死ねばよかったなんて、言いません。置き去りは、とてもつらいんです。だから……あなたが怒るって、きっとすごく怒るってわかってるけど』

 今すぐ抱き締めてやらなければ壊れてしまうと思うのに、恵にはどうにもできない。
 歯噛みしたとき、ジョンは笑った。

『見ないで』

 写真立てがパタンと伏せられた。
 灰で汚れたガラス片を取る手が妙に生白く、恵はゾクリと悪寒を覚えた。

『わすれてもいいよ、おれは、あなたが』

 最後まで言葉は紡がれることなく、浮かび上がっていた映像ごと途切れる。
 静寂を取り戻した廊下にはジョンのすすり泣く声と、足元に張った水音だけが響いた。

「……こわい、あなたが、いない」
「ジョン」

 重たそうに頭を上げたジョンが、恐る恐る先ほどまで記憶を映していた場所を振り返る。
 そこに何もないことを確かめ、安堵すると同時に切なさで横顔を歪ませた。

「なまえ、よび……たかった、のになあ……おれのきおく、は、まっしろで」

 ほろりと顎を伝って落ちた男の涙が、足首までを満たす水に混じる。その様を見送る恵は、以前に役人から聞いた話を思い出した。

「この水な、巡り廊下を通る魂が一生の内に流した涙と同じ量なんだぞ。お前の涙は……ふっかいなあ」

 どうすれば彼の恐怖を和らげてやれるのか、考えたのは一瞬だった。
 恵は口内のまだ大きな飴を、一思いに噛み砕く。ゴリゴリと奥歯で磨り潰しては喉の奥へ流しこむ作業を、ジョンはぼんやりと眺めていた。

「なんで……そんな、やさしいの」
「馬鹿。俺だって誰にでも優しかねえよ」

 完全に飴が口内からなくなると、晴れやかな気分だった。恵は散歩へ出かけるように、繋いだ手を引いてジョンと歩き出す。
 すると今まで白かった空間に、いくつもの記憶が浮かび始めた。

「これで白くねえよ。怖くねえよ。きっと、その内お前との記憶も出てくる」
「でも……そし、たら、あなたは」
「一緒に見ろよ。デートだ、デート。久し振りなんじゃねえの」

 泣き腫らして真っ赤になったジョンの目尻が、溶け出しているかのように垂れ下がった。


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