18


 隣に座り、ジョンの肩をぐっと抱き寄せる。
 服越しでも手の平へ伝わる冷たさを、未だ信じたくはなかった。

「苦しいか、ジョン。つらいか。悲しいか。今、お前はどんな気持ちでいる?」

 事実を知った者として、彼を愛しく思う者として、一秒でも早くジョンを苦しみから解き放ってやるべきなのだと理解している。
 しかし耳の中に木霊するジョンの声が、正常な判断の邪魔をする。もう少し、といじらしく囁いた彼を思い起こす度、固めかけた決意は誘惑の手で崩れていった。
 今夜だけ。もう少しだけ。
 その願いがジョンのものか、恵のものか判断つかない。感情の境界線がこれほど曖昧ならば、いっそ二人分まとめて溶けてしまえばいいのに、と無理な祈りを抱いた。
 その夜、恵は片時もジョンの傍を離れなかった。しっかりとその身体を抱き寄せて、もう一度奇跡が起きやしないかと、完璧なまでの無表情を見つめ続けた。

 ふと気づいたとき、窓の外は明るくなっていた。眠るつもりはなかったはずなのに、いつの間にか寝入っていたようだ。
 腕の中には恵の腕枕で横たわるジョンがいる。昨夜と変わらぬ体勢で時折瞬きをするだけの男は、眠るという行為もできなかったのだろう。

「……なあジョン。俺はどうしたらいい? どうしたら、お前に……報いてやれる?」

 このまま、腕の中に囲っておけばジョンが恵の前から消えることはない。記憶のない恵が、ジョンを置いて先に転生することもない。
 だったら何も考えずこうしていたい。そう思った瞬間に、恵は自分の取るべき正しい行動がわからなくなってしまった。

「……を、……さい」
「え?」

 不意に自分以外の声が聞こえ、恵の心がざわついた。ここにいる恵以外の人間はジョンだけだ。
 信じられない気持ちで男の顔を凝視すると、彼はぎこちない瞬きの度、徐々に胸元から視線を上げて恵の顔を見た。

「なまえ……」

 これは夢だと言われた方が、まだ納得できる。恵は見開いた目から涙を零し、二度目の奇跡に触れた。

「お前……どんだけ、俺のこと、好きなの」
「泣かないで、今度は……まもる、から」

 のろのろと持ち上がった男の手が、恵の背にまわってそこを叩く。ゼンマイの勢いを失ったオルゴールが、最後の音を絞り出すように、ゆっくりと。
 ジョンの頭を抱きこんで、恵は大きく息を吐き出した。強く目を閉じて涙を払えば視界もクリアになり、目先の安らぎを蹴り飛ばす決意ができた。

「ありがとな。もう……十分だ」

 一人旅立った恵をこんな世界まで追いかけてきて、求めてくれた。一年が経ってもなお浄化されずに苦しみ続け、傍にいようとしてくれた。これ以上この健気な男に望むものなど、何もありはしない。
 次は恵が、その愛情に応える番だ。
 ジョンを連れて階下に降りると、カウンター席には役人が座っていた。

「やあ。待ちくたびれたよ」

 男はこれから恵が何をしようとしているのか察しているのだろう。魂の生前も状態も、考えていることまで見通す概念にはほとほと隠しごとができない。

「死者統括部って暇なのかよ」
「失礼な。人間は付き合いの長い友人と別れるとき、見送りをするんだろう?」
「つくづく、お前は人間くさいよ」

 予想では「心外だ」と悪態を返されるはずだったが、役人は珍しく苦笑していた。

「僕も、そう思うよ」
「へえ……本当は人だったりしてな」
「だったら説明ができるね。キミに会いたい一心で、この世界の浄化作用に抵抗するジョン君を見て……会わせてあげたい、と思った気持ちも」
「……そうかよ」
「ねえ、僕もついて行こうか?」

 恵は驚いて役人の顔を凝視した。

「何言ってんだ。役人は中に入れねえんだろ」
「そう聞いているけど、試したことがないから断定できないね」
「だとしても、お前はここにいろよ。一人の帰り道は結構つらいんだ」
「僕に感情はないよ」
「そうは思えねえな」

 笑っていない役人は、まるで別人のようだ。
 恵にはそれが本当に別れを惜しむ友人に思えたから、気安い仕草で片手を振った。

「気持ちだけもらっとく。……じゃあな」

 ジョンの手を引いて巡り廊下の扉へ向かい、瓶から取り出した飴を口に含む。役人は何も言わなかったが、彼の権限でしか開閉できない扉は鍵が開いていた。
 迷いなく、恵はジョンと共に白い空間の中へ足を踏み入れる。
 するとやはり、待てど暮らせどジョンの記憶は映し出されなかった。白紙の人生という空虚な響きどおり、巡り廊下の優しい白には戸惑うようなノイズが走った。

「こわい」

 隣からポツリと声が聞こえ、繋いだ左腕を抱きこまれる。ジョンは緩やかに目を伏せ、恵の肩に顔を埋めた。
 咄嗟に彼の頭を空いている腕で包んだ恵は、ノイズだらけの中へ滲むように浮かび上がった映像を見て息をのむ。

「ジョン……?」

 遮光カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、ジョンが呆然と立ち尽くしていた。


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