16
スプレーで悪戯書きされた細い電柱、錆びた自転車、室外機に並列されたいくつものプランター、そこに咲く色とりどりの花。平屋の傍を歩くときだけ、日差しが側頭部を温める。不規則な間隔でできあがった歪な形の影を、無意識に選んで踏むとノスタルジックな気分になった。
秘密基地の入口みたいな路地を抜けると、整えられた桜の並木道に合流していた。青々と茂った木々の間を進みながら、恵は風で揺れる木の葉を見上げて微笑む。
見覚えはないのに、とても懐かしい。もはや恵には、あれだけ強く言い聞かせた否定を押し通す術がなかった。
「薄々、勘づいてはいたんだ」
返事はなかったが、繋いだ手に力がこもる。
「夢に出てきた男は、お前だろ」
あわよくば、ジョンが吹き出して笑い飛ばしてくれることを願った。しかし淡い期待は叶うはずもなく、男は鼻を啜る。
恵はそれ以上何も言えなかったし、ジョンも黙りこくったままだった。世間話ができるような精神状態でもなければ、核心を突いて真実に触れる覚悟もできていない。歩みと共にこの世界がフリーズしてくれるなら、立ち止まることを躊躇わなかっただろう。
けれどジョンは並木道の途中で曲がり角を右折し、手前から三軒目の喫茶店へ恵を導いた。店内へ入ると固く握り締められていた手が離れ、恵は一人、扉の前に取り残される。
そこは、昨夜の夢と同じ喫茶店だった。
カウンターには足の長い椅子が四脚、テーブルセットが二卓。目覚めたときには曖昧になったはずの光景が、強い既視感と共に輪郭を取り戻した。
ジョンは真っ直ぐにカウンター席の左端から二番目に腰かける。そして身体を左向け、頬をペタリとテーブルへつけて寄りかかった。
「今日こそ、名前を教えてください」
異様に小さな声だった。ジョンには似合わない気がして、恵は無理に笑い声を立ててから彼の左隣へ座る。そうするのが自然だと、心が教えてくれた。
「しつけえ」
ジョンは嗚咽を零して泣き始めた。ダークブラウンの天板へ、彼の流した涙が溜まる。
恵はその雫を飲み干したい衝動に駆られたが、手を伸ばす前に男が熱い溜め息を吐いて口火を切った。
「知ってますか。この世界では、一番大切なものから順に、浄化されていくんです」
頷くと、ジョンは下手な作り笑顔を象った。
「だから俺は、真っ先にあなたの名前を忘れてしまった」
恵は煙草のヤニで少し黄ばんだ天井を見上げ、深く、長い息を吐く。じんわりと痛んだ目頭から想いが零れないように、忘れたままの情を、取り上げられてしまわないように。
「馬鹿だなあ……」
「はい。よく、あなたに言われます」
眠そうに微睡んだ声で言い、ジョンは恵の右腕へ触れる。
「でも、もう少し、あなたといたい」
さほど大きさの変わらないその手を握る。
競り上がってくる愛しさで、頭がおかしくなりそうだった。
ジョンが恵の元へやってきて六日目の朝を迎えた。
一週間ぶりに珈琲を飲みにやってきた朗らかな好々爺が、杖を片手に席を立つ。
「私はそろそろお暇しようかな」
「はい、じゃあまた」
「ああ、また。美味しかったよ、ありがとう」
腰の曲がった男は杖をつき、のんびりと店を出て行った。恵は彼がこの後どこへ向かうのか、「また」と交わした約束が叶うかどうか知らない。わかるのは男の時間が、後一月程度しかないことだけだ。
ほどなくして、少ない洗い物を片づける恵の耳に、取りつけ直したベルの音が届いた。
反射的に「いらっしゃい」と言って顔を上げ、思わず吹き出す。
「なんだ。静かに開けられるんじゃねえか」
揶揄された役人は得意げに肩を竦め、カウンターへやってくる。
「もちろんさ。そろそろ僕も、君のお小言には飽きたからね」
「もっと早い段階で飽きてほしかったよ」
「おや、てっきり褒め称えてくれるものだと思っていたのに」
「あーすごいすごい」
雑な称賛に役人は不満そうな顔をしたが、恵が出した珈琲を見て笑顔に変わる。
「おや珍しい。メグミが僕に飲み物を出して歓迎してくれるなんて」
「たまにはいいだろ」
役人は上機嫌でカップへ口をつけ、美味しそうに飲み始める。身体の構造は人間と同じなのだろうか、と考えるのは無意味だろう。
「今日は何しに?」
「君の顔を見に、はどうだろう?」
「ああ、人っぽいわ。本当は?」
「他愛のない話をしようかと思ってね」
熱い珈琲を休憩もせずに飲み干した役人は、洗い物を再開させた恵に食器を手渡す。そしてカウンターへ肘をついた。
「今日も彼、いないのかい?」
「いるよ。今頃は上で、空でも見てんじゃねえかな」
「そうかい」
役人は言及することなく笑っただけだった。
食器を片し終わった恵は水を止め、手を拭きながら役人の隣へ行って座る。暫くは誰も来ない気がしたから、適当な灰入れを用意して煙草に火を点けた。
「あいつは、いつからここに?」
「少なくとも、君よりは後だね。もう知っているんだろう?」
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