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「……何が言いてえの」
「そろそろ認めたらどうだい?」
「だから、何が」
「巡り廊下は、彼の記憶を」
「っやめろ!」

 腹の底から迸った怒鳴り声は、発した本人にも耳鳴りを寄越す。全速力で走った後のように呼吸が荒くなり、乾燥した喉がヒリつく。
 言葉を遮られても感情を波立たせることのない役人は、恵の様子を興味深く観察しているようだった。

「やめて、いいのかい?」
「……ああ。帰ってくれ」

 強い主張に微笑んだ役人は、目を伏せたと同時に霞んで消えた。いつ見ても不思議な存在だ。しかし今はそんなことより、与えられた情報に動揺していた。
 役人は、ジョンが白紙の人生を持つ魂だと言いたいのだろう。癒せないほどの深い傷を負って心の壊れた、憐れな存在だと。
 彼の腔内から飴が消えた後も、彼の記憶は白い空間を彩らなかった。それは確かだ。恵は自分の目で見た光景を疑わない。

 しかし、何故そんな話をしたのかは推測できない。恵に白紙の人生を知らせることが、どのような得に繋がるのだろう。
 役人は魂を管理し、滞りなく巡らせることを存在理由とした概念だ。そのための行動しかしない彼らの、懸念事項は魂不足の一点に尽きる。個体としての感情など持ち合わせていない、とは本人が言っていた。
 ならば、なんのために――?
 グルグルと回転する思考回路が、ある仮定を弾き出す。その瞬間、恵は髪を掻き乱した。

「……違えよ」

 瞬く度にチラつく幸せな夢を、そこにいた人物を、重なる笑顔を必死に忘れようとする。

「ジョンじゃねえ。ジョンなわけ、ねえよ」

 強く言い聞かせたそのとき、二階からガシャンと何かが割れる音が響いた。恵は思考を中断し、無意味と知りつつ天井を見上げる。

「……ジョン?」

 ハッとして階段を駆け上がる。寝室の扉を蹴り開けると、音に驚いたジョンが中腰のまま振り返った。
 ベッドの足元付近、床に散らばるのは灰皿のガラス片。彼がそれらに手を伸ばしているのを見た恵は、無我夢中で声を張り上げた。

「素手で触るなって言っただろ!」

 あからさまにビクついたジョンが手を引っこめる。声もなく恵を見つめる彼の表情は、悪戯をして親に叱られることを予知している子どものようだった。
 真っ先に駆け寄ってやりたくなる自分を律し、恵は寝室の隅に立て掛けてある小ぶりな箒を取る。

「どけ」

 放心しているジョンをベッドの上へ押しやり、ガラスと吸い殻を集めていく。恵は無心で手を動かしていたが、いつの間にか隣でしゃがみこんでいたジョンに手首を掴まれて箒を落とした。

「……怪我してねえか」
「してません」
「ならいい。離せよ、塵取り持って来るから」
「嫌です」

 大小様々な形に砕けた破片に、窓から差しこむ光が反射して煌めいた。いやに眩しくて目を眇め、溜め息を吐く。

「別に怒ってねえから、心配すんな」
「思い出したんですか」
「何を」
「俺は多分……後少し、しか」

 悲しげに伏せた睫毛を伝って、破片の傍に男の涙が落ちた。恵は言葉をなくし、ただ止めどない雫の行く末を見送る。
 ジョンは軽く鼻を啜り、睫毛に纏わりつく涙を瞬きで振り落とした。

「マスター、出掛けましょう」

 ぐ、と手首を引かれ立ち上がった恵は、足を踏ん張って拒絶を示す。

「嫌だ」

 ジョンは集めたばかりの破片を踏みしめ立ち止まる。手首を離す気はなさそうだが、恵の主張に耳を傾けていた。

「俺は外に出ねえ」
「……どうして?」
「記憶がねえから」

 この世界の全てに、決まった形はない。与えられた「家」というスペースから一歩外に出れば、そこに存在しようとする魂の記憶や思いに呼応して、道も、街並みも行き先をも自由に変化する。
 一度好奇心で店の外に出た恵の前に広がったのは、どこまでも続く無の空間だった。伸ばした手先が見えないほどの濁った世界は、思い出すだけで鳥肌が立つ。そのとき、もう二度と外に出ないと決めた。

「なんもない空間が怖えんだ。だから俺は」
「大丈夫です」

 手首から手の平へ握る場所を変えたジョンは、ぎこちなく微笑む。心なしか昨日より冷たい彼の手は、それでも恵を安心させた。

「マスターに記憶がないなら、俺のをあげます。だから大丈夫です」

 何が「だから」なのか、全くもって理解できない。根拠のない幼子の言い訳と、大して変わらないほど馬鹿馬鹿しい。
 それなのに、恵は頷いていた。
 手を握り返すと、ジョンは迷いなく足を踏み出す。図体ばかり大きくて頼りなく思えていた彼の背中は今、恵が歩みを止めないための指標になっていた。
 階下へ戻り、入口の扉にジョンが手をかける。腹を括った恵の目前で、少しずつ明らかになっていく景色は、想像と何もかもが違っていた。

「あ……?」
「ね、大丈夫だったでしょ」

 恵のこめかみに唇を押しつけ、ジョンは店外に一歩出る。そこは、少し古びた家屋が立ち並ぶ路地だった。


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