11*


『そりゃ面白がるだろ。公衆の面前でいきなり、一目惚れしました! だぞ』
『インパクトはあったでしょ?』
『恋が芽生える気配は感じねえけどな』
『うわああん、酷い!』

 泣き真似をするくせに諦める様子のない青年は、いじらしい指先で恵の袖を軽く摘まむ。

『幸せにしますから、俺に恋してくださいよう。好きです』
『本日八回目の告白どうも』

 二人のやり取りを見守りながら、頬を濡らした涙が顎から落ちる前に袖で拭った。
 記憶にもなく、憶えもないのに、どうしてこれほど懐かしいのだろう。失ったものに漸く出会えたような充足感が、とても怖い。
 目覚めたらまた忘れてしまうのだろうか。
 こんなにも、愛しくて堪らないのに。

「馬鹿だなあ。お前が先に名乗らねえから、いつまで経っても教えてくれねえんだぞ」

 無意識に呟いたアドバイスは、恵を見つめながら幸せそうに珈琲を飲む青年へ届かない。
 一目でいい。彼の顔が見たい。
 立ち上がり、しゃくり上げながら青年の背へ手を伸ばす。一歩ずつ確かめるように床を踏みしめ、近づいていく。
 だが視線の先で、本を閉じた恵が青年の頭を撫でた。そして振り向き、困ったように笑う。

『駄目だろ。これは俺のだ』


 ――夢から醒めた恵は暫く呼吸を止めていた。苦しくなって息をする。息をしたのに、ずっと苦しいままだ。
 見慣れた天井の中央には、無表情で恵を覗きこむジョンがいる。彼はぐっしょりと汗をかいた恵の額を、手の平で拭い撫でた。

「怖い夢でも、見ました?」
「夢……?」

 頭の中が散らかっていて、見ていたはずの夢が朧げにしか思い出せない。困惑していると、目尻をジョンの指先がすべっていった。

「だって泣いてる。マスターを泣かせたのは誰?」
「……誰でもねえよ。幸せな夢だった」
「じゃあ、どうして泣くんです?」
「悲しかったから」

 それ以外の言葉が浮かばなかった。
 誰かの隣で、着実に絆されていく幸せな夢だった。しかしそれが誰なのか、判然としない。あれは間違いなく恵の記憶なのに、辿ろうと足掻けば足掻くほどに輪郭が曖昧になっていく。空の箱を何度も開けては落胆し閉めるような、空虚な気分だった。

「もう少しで……あいつに会えた」
「……あいつじゃないと駄目?」

 ジョンらしからぬ低い声が恵を驚かせた。
 豆電球の明かりを背負った表情は、翳っていて仄暗い。

「マスターを一人にするような奴が、そんなにいい?」
「何言ってんだ、ジョン」
「俺がいるじゃないですか……っ」

 泣きそうに顔を歪めたジョンが、恵の右腕をシーツに押さえつけて唇に噛みついた。
 勢いがあったせいか、歯が唇にぶつかって痛みが走る。恵は眉を寄せたものの、必死になって舌を差し入れてくる男を黙って受け入れた。

「マスター、拒んで、じゃないと……マスター、嫌がったりしないで……っ」
「……どっちだよ」
「どっちも、です」

 ついさっき聞いたようなやり取りに、毒気を抜かれてしまう。
 薄いTシャツの裾から潜りこんでくる手に身体をまさぐられながら、彼を苦しめるものの正体が何か考えた。
 叶うならば、ジョンには笑っていてほしい。
 男に圧し掛かられているにも関わらず、恵の頭はそんなことでいっぱいだった。

「くすぐってえよ」

 首筋へキスを降ろしていくジョンの頭に、恵はそう声をかけた。チラリと上目に恵を確認したジョンは不満そうに、指先で胸の飾りを引っ掻く。

「……っ」
「くすぐったいだけじゃ、ないでしょ?」

 きゅう、と抓られると痛みに混じる僅かな快楽が恵に溜め息を吐かせた。ジョンはその反応に気をよくしたのか服をめくり上げ、抓られて赤くなった突起に舌を這わせる。
 乳首を口に明け渡した手は思わせぶりに腰を撫で、ウエストのゴムをくぐって下着の中へ突き進んだ。
 この世界にやってきて一度も、そこを己で慰めたことはない。食欲や睡眠欲と同様、性欲も皆無だからだ。擦れば勃つのか、射精は可能なのか、気にもならない。
 しかしジョンの手の中で性器は少しずつ形を変え、下腹に軽い痛みが沁みた。

「……ジョン」
「拒まないで、どうか……お願い」

 切実な願いを囁くジョンは、確かめるように棹を握る。決して制止しようとしたわけでない恵は、いよいよ己の性対象が異性でない可能性に確信を持ち始めていた。

「あんま……すんな、出ちまうから」
「わかりました」

 ジョンは頷いたくせに、恵の下衣を脱がして再び屹立に手をかけた。咄嗟に身体を起こそうとするが、縫いつけられた右腕が動作の邪魔をする。
 性器を握って上下する単調な動きは恵を追い立て、食いしばった歯の隙間から荒い息が零れた。

「ジョン、出るって」
「はい。ちゃんと脱がしたので平気です」

 上擦ったジョンの声に、下肢から響く先走りの水音が重なる。ニチャニチャと鼓膜を震わせる音はあまりにいかがわしく、恵は堪らず頭を横向けて片耳をシーツで塞いだ。


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