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「多少な。途中で俺の飴食わせたから、それほどでもねえと思うけど」

 始まりの扉までは長くとも、店内への扉までは短いという、説明のできない現象がなければどうなっていたかわからない。
 嫌な想像で顔を顰める恵を笑い、役人はひょいと椅子から降りた。

「暫く休めば落ち着くだろう。僕は行くよ。お疲れ様、メグミ、ジョン君」

 手を振ると、黒ずくめの概念が消える。
 若干回復したらしいジョンがその瞬間を見ていたようで、力無く頬を恵の腹へ預けた。

「消えましたね……」
「概念だからな」
「もうなんでもこいです……」
「だろうな」

 ただでさえ不思議な世界に存在していて、魂が溶けていく様をその目で見ているのだ。
 今更、役人が一瞬で消えたからと言って驚くことでもない。

「とりあえず……上に行くか」
「はいい……」

 間延びした声で頷いたジョンを連れ、二階の寝室へ向かう。ベッドへ放り投げてやると、男はいそいそと恵の腰にへばりついた。

「マスター、あの飴ってなんなんですか?」
「ただの飴だよ。巡り廊下の浄化には例外があってな」

 肉体という概念ごと自我を魂から削ぎ落すあの不思議な空間は、「生」に興味がない。ほとんど人ではなくなった魂にのみ、優しい施しを与える巡り廊下を、恵は甘い香りで獲物をおびき寄せる食虫花のようだと思っていた。

「生きるための行為をしていれば、浄化対象にならねえんだ」
「つまり……食べること?」
「そうそう。まあ、口ん中に何もなくなった途端、すぐに浄化され始めるってのは俺も初めて知ったけど」
「そうだったんですね……」

 ジョンに飴を渡してから数秒も経たず、赤ん坊の恵が浮かび上がるとは思っていなかった。結局両親の顔すら落ち着いて見れなかったが、その口惜しさも数時間後には浄化されて忘れてしまうだろう。苦笑する恵はふと今になって、不自然な現象に気づいた。

「あ……?」
「どうかしました?」
「なんで……お前の記憶は出てこなかったんだ……?」

 恵よりジョンの方がずっと、飴のない時間が長かったはずだ。しかしカナコの記憶が途切れて以降、目にしたのは自分の記憶だけ。
 腰にしがみつくジョンを見下ろし、柔らかい茶髪に手を置く。肩をビクつかせた男は、疑問に対する答えを隠しているように見えた。

「なあジョン、お前……何か知ってるのか?」

 男は返事をしないまま顔を上げる。ポロポロと涙を零す様は憐れで痛々しく、追及などとてもじゃないができなかった。

「マスター」

 おもむろに身体を起こしたジョンが、無抵抗の恵にキスをする。似合わないシワを眉間に刻み、唇を噛んだ男は縋るように恵の首筋へ顔を埋めた。

「名前、教えてくださいよ」
「ジョン……」
「早く、しないと……もう時間、時間ないんです、マスター、意地悪しないで……」
「……してねえよ」

 切実に願われるほどの価値が己の名前にあるとは思えないが、叶えてやれない自分を責めた。罪悪感で息が止まりそうだ。

「なんで思い出せねえんだろうな」

 この世界にきて初めて抱いた悔しさをどうすることもできず、大きくて頼りない男の背を抱き寄せる。
 ジョンは小さな声で、泣きながら「ごめんなさい」と繰り返した。「謝るな」と言うのは簡単だったが、吐き出すのを止めればジョンが壊れてしまいそうな気がして、謝罪が止むまで背を撫で続ける。心が千切れそうなほどか細い声は、ジョンが泣き疲れて眠るまで続いた。
 その夜、恵は初めて夢を見た。

 午後の麗らかな日差しが、洒落た出窓から店内に差しこんでいる。少々ごちゃついている印象を受けるその店は、あまり広くはないものの落ち着きのある喫茶店だった。
 その中心で立ち尽くし、夢を見ているのだと自覚した。何故ならカウンターで珈琲を飲んでいるのは、年若い恵だったからだ。
 左端の席で、恵は文庫本のページをめくる。
 まるで映画を観ているような感覚を覚え、窓辺のテーブル席へ腰かけた。

『先輩、まだ飲まないんですか?』

 恵の隣にいる青年が弾んだ声で話しかけると、恵は顔を上げないまま頷いた。

『もう少し冷ます』
『ふふー、猫舌可愛い……あ、でも先輩はカッコいいです』
『どっちだよ』
『どっちもですよう』

 構われて嬉しいのか、男はふやけた声で笑っている。
 それは聞いている者まで照れさせる甘ったるい囁きだったが、すぐ隣にいる恵は再び、冷静にページをめくって鼻を鳴らした。

『お前さあ、まだ飽きねえか』
『何にですか?』
『俺のストーカー』

 眺めているだけのつもりだったのに、思わず吹き出してしまった。慌てて口を抑えるが、夢の中の二人は気づかない。

『違いますう、求愛行動ですう。そろそろ先輩の名前、教えてくれません?』
『同じ大学通ってんだから、その気になりゃわかるだろ』
『とんでもない! 先輩のご友人方が面白がって、俺から先輩の名前を隠すんです』


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