その日は朝から、あんまり体調が思わしくなかった。

放課後の閑散とした廊下を、いつも通り生徒会室へ向かおうと歩いていた。しかし足を踏み出す度、固いはずのリノリウムがぐにゃりと形を変えて沈みこむ。
視界はまるで陽炎みたいに揺らめいていて、真っ直ぐ進んでいるのかどうかが自分でもよくわからなかった。

「…っ…」

酷い目眩に耐えきれず、俺は壁に手をつこうと右手を伸ばした。
けれどそこには何もなくて、ふと感覚的に、あぁ窓が開いてるんだー、と納得。

傾いてく身体を自覚しながらも足をリノリウムにのまれている俺は何も出来なくて、空を切るばかりの右手をさ迷わせる。

「…っ志藤様!」

けれど、投げ出されそうな俺の左手を掴んだ誰かが、それを思いきり引いた。
ぐいっと重心が逆側にかかり、そのまま固い場所に座り込む。あんなにぐにゃぐにゃしていたリノリウムは、実際触ってみるとやはり固いままだった。

「な、な、何を、されてらっしゃるんですか…!」
「え…たいちょー…?」
「あなたが落ちる、と思って、僕、僕…!ここは、四階ですよ!」

俺の親衛隊長は、ひしっと俺の右腕を抱き締めたまま、目に涙をいっぱい溜めて喚いた。
俺はただびっくりして、少し落ち着いた視界にいた彼に目を瞬かせた。

「え、と…ごめん、ねー?心配、かけたね」
「本当ですよ、本当、僕、志藤様に何かあったら、隊員の皆に八つ裂きにされます!」
「くはっ、そーかな、迷惑かけて、ごめんね」
「いいえ、いいえ、迷惑だなんて思った事、僕たちは一度もありませんっ」

小さな頭をゆっくり撫でてやれば、その目尻からポロリと水っぽいのが溢れ落ちた。
優しい人は、やっぱり損だ。俺みたいなのの為にその綺麗なまなじりを躊躇いなく濡らしてしまうんだから。

「僕たちは、志藤様が大好きなだけですから…っ、また、皆で、お菓子パーティしましょうよ…っ」

そう言えば最近は忙しくて、彼らの集まりにすらお邪魔していない。ひょっこり顔を出せば皆嬉しそうにしてくれて、賑やかで、とても楽しいのに。
俺は申し訳なくなって、また隊長の頭を撫でた。

「うん、もー寝ながら歩かないから、許してね…?」

一瞬鋭くなった隊長の目が、ゆるりと傷付いたように伏せられた。
俺はそれを知りつつ、何も知らない顔でまた彼の頭を撫でた。

+++

好き、という言葉は、何のためにあるんだろう。

隊長の「大好き」を受けて、俺が感じたのは残念ながら嬉しさだけじゃなかった。
そう感じてしまったのは偏に俺が臆病だからだ。大好き、ならば、それはいつまで大好きであるのだろう?そんな不信感が先立った。嫌な性格だとは、自覚してる。

同じ感情を同じ強さで持ち続けるのは、生きている限り難しい。夫婦ですら、冷めたと言って罵り合うし、親友だと肩を組んだ次の日には突き放す事もある。
だったら、その「好き」はいつまで「好き」のまま居られるのか。いつになったら「嫌い」になってしまうのか。
始まりがあれば終わりがある。そんな当たり前の事が、人間の感情には付きまとう。だから、他人の口にする「好き」ほど信用できないものはないと、俺は思っていた。

だとしたら、俺が副会長に向ける「好き」は、「好き」じゃないと言った会長の言葉はある意味正しい。恋、とは呼べない。愛と呼ぶのも、しっくりこない。
ただ、それでも他に言葉が見つからないから代用的に「好き」でいるだけだ。例えば他の言葉を宛がったとしてそれが恐怖でも、依存でも、なんでもいい。中身が変わる事はないからだ。

好き、と言い合うだけでは足りない俺に約束を言い出したのは、副会長だった。
守っていられたら傍に置いておく。破ったら捨てる。至極簡潔で明快な関係は、あやふやな「好き」で繋がろうとする人達とは違う次元にいる。

だから、俺が約束を破る事はない。
俺は一人ぼっちになる事が、何よりも怖いからだ。

「…ぅや、恭也。…恭也?」
「、え?」

ポン、と肩を叩かれ、俺は弾かれたように顔を上げた。急に動かした重い頭がぐわんと揺れる。何とか平静を装っている間に、俺は今の状況をやっと思い出した。

場所は生徒会室。隊長にまたもやがっつり送られてしまった俺は、おっちらおっちらと進めていた仕事の手を止めて深い場所まで思索していたらしい。
何時の間に近くまで来たのか、会長は不安げに俺を覗きこんでいた。

「あ、…えと、どーしたの?」
「どーしたの、は俺の台詞。お前大丈夫かよ、真っ青だぞ」

ーーいけない。これはいけない。

ふ、と視界に映った人物の横顔を見て、俺は慌てて笑顔を浮かべた。
そうだ。今日はかなり久しぶりに副会長が生徒会室に来ていたんだ。青い顔なんかでいる訳にはいかない。みっともない姿は見せたくない。

「やだなーかいちょ、俺肌色極めてるよー?」
「冗談言ってる場合かよ。病人のがまだマシな顔色してんぞ」
「かいちょー色盲?」
「茶化すな」

言って、会長は素早く俺の前髪をでっかい手でかき上げた。避ける間もなく額に押し当てられたのは、少し冷たい手のひらだ。
ぼう、とわだかまっていた熱がそこへと吸い込まれてく、みたいな感覚を覚えた俺は、はっとしてその手を払う。

パチンと小さな音がして、会長は不満げに眉を寄せた。

「あ、…ごめんね?えと」
「熱あるじゃねーか。んな無理して仕事してどーすんだ」
「してないしてない。俺ね、風邪引いた事ないんだよー?すごいでしょ」

にへらと笑えていただろうか。
会長の視線がどんどん鋭くなる。いつもなら適当に誤魔化すけど、今は副会長が同じ空間に居るから、下手な芝居で会長に突っ込まれるのは避けたくて、必死になって誤魔化すしかなかった。

本当は、会長のいつも冷たい手の平は、とても気持ちいいんだけど。

「恭也…」
「きょーや先輩、本当に顔色悪いっすよ」
「そうですよ。部屋帰った方がいいですって。送りますから、和野が」
「俺かよ。全然いいけど」

後輩二人まで参戦してきて、俺は内心参ったなぁと頭を抱えていた。
いつも可愛いけど、今日は可愛くない。誤魔化す為に言葉を選ぶのも、笑顔を浮かべるのも、今の俺は精一杯で少しの綻びをつつかれれば崩れてしまいそうだからだ。

「ほら、和野もそう言ってんだし、送ってもらえ」
「だーいじょうぶだってば」
「大丈夫じゃねーから言ってんだろ。これは没収」
「あっ」

デスクに広がった書類達が、会長の手によって奪われた。
役員としてこの部屋にいる以上仕事は必須で、それを取り上げられたら俺はここに居る意味がなくて、そしたら、俺は今いらないって事になる。

ぞわ、と全身に走った悪寒が、体調のせいなのか、精神的なものなのかは、判断出来なかった。

「…ひどーい。かいちょ、俺の仕事取った…」
「今日のお前の仕事は部屋で泥のように寝る事。起きたら連絡しろ。病人食をたらふく食わせてやる。…手、貸せ」
「なにそれ…いーらない」

差し出された手を拒否しても、会長はちっとも怯んでくれない。
もーいい、と言った俺は自棄になって、自ら立ち上がった。

「…っ」

途端、グラリと脳みそが揺れる。ほんの一瞬だけど視界が真っ暗になって、沈んでるような、飛んでるような、不思議な感覚に苛まれる。

「きょーや先輩!?」

慌てたような和野くんの声が聞こえ、やがて不安定な視界はギリギリ正常と思われるレベルまで回復した。
かと思えば、指先が痺れていて感覚がない。おもむろにそれを持ち上げて握って開いてしてみると、そこを包むように大きな手が重なった。

「え?」
「…んなフラフラで、何が大丈夫だよ、馬鹿」

痛いのを我慢してるような会長の声は、俺のすぐ耳元で聞こえた。
不思議に思って首を巡らせて漸く、俺は後ろから会長の腕に抱き止められていたのだと気付く。それは、あまりに、顔の距離が近くて。

「ちょ…ぇ、かいちょー…?」

胸の辺りで握られたままの俺の手が、指を絡めてひとつになった。
呆然と呟く俺の髪を揺らしたのは、会長の深い溜め息だ。

「辛いなら辛いって言えよ。困ってる時は助けてって言えよ。何もなくても頼ってこいよ」
「あ、の、かいちょ…?」
「俺も、和野も阿笠も、恭也が心配なんだ」

小さくだけど、そーだそーだ、と阿笠くんの追随が飛ぶ。
っす。と和野くんが大きく頷くのを、役立たずの目はしっかりと視認した。

「か…っかいちょ、離して…」
「却下。離したら逃げるだろ」
「逃げ、逃げないっ、ほんとに、あの、なんか変だからこの、状況が…っ」

抱き締められて、何やらとてつもなく恥ずかしい事を言われた気がする。

好き、だとか。嫌い、だとか。
傍に置いてやる、とか。そういう類いの言葉は言われた事があるけれど、さっきの会長みたいな、俺を受け入れようとする言葉には慣れていなかった。

保健室で会長に「優しくされるの慣れてないのか」と言われたのは、当たっていたのかもしれない。
だって、優しくされる前に俺はいつも逃げ出してしまうから。…副会長との、約束を思い出して、戒めてしまうから。

「会計」

強情な会長と慌てる俺の間に、鋭い声色が飛び込んだ。
思わず動きを止めた俺を、会長は何故かぎゅっと強く抱き直す。

副会長は手元の書類に目を向けたまま、いつもの横顔で口を開いた。

「お茶」
「…!うん!」
「あ、おい恭也っ」

頭でどーのこーの考える前に、俺は会長の腕をすり抜けて給湯室に足を向けていた。

いつぶりに話しかけてくれただろう。数えるのをやめてしまったから、詳しくはわからない。
それでも、目障りだと怒られる事はなかったから、俺はホッと安堵していた。

給湯室に入り、パタンと扉を閉める。

その瞬間扉の向こうでは、大きな怒鳴り声が散ってつい肩をびくつかせた。

「田所!てめー…っ」
「あ、邪魔しちゃった?つか、青春ごっこは他所でやれよ。目障りなんだけど」

ぐわん。脳みそがまた揺れる。
パタパタと近付いてくる足音が、やけに遠く聞こえた。

「何を熱心に口説いてるかと思えば…あれの何がいいわけ?」
「お前には、わかんねーよ。フラフラしてる恭也をパシるような、血も涙もない男にはな」

きゅ、とドアノブが目の前で回る。
一周、二周、三周…ドアノブって、こんなにたくさん回ったっけ?

「知らないよ、あれの体調なんて。どうでもいいから」
「…っそうかよ。じゃあ、そのままでいろよ。もうてめーには…」

会長がその後何を言ったのか、副会長が何て返したのか、俺は知らない。

ふぅ、と意識が飛ぶ寸前に開いた扉の向こうにいた腕が、危なげなく俺を抱き止めたところで、俺の時間は途切れてしまった。

もしかしたら、聞きたくなかったのかもしれない。
副会長の嘲りも、会長の擁護する言葉も、何もかも。

(知らないままでいないと、俺はまた人みたいになりたいと、思うかもしれないから)

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