「なっ、どうしてっ」

咎めるように声を荒げた真智に、恭也はあっけらかんと言う。

「えーだってさー、いーよって言ってないのに触りに来るから。四日程無視し続けてたら、なんか猛省してくれてるみたい。ほら、躾は初めが肝心でしょ?あ、入って入って、立ち話もなんだしさー」

ふふー、と罪悪感もなく楽しそうに笑った恭也が、真智の手を引いて部屋の中に引っ張りこんだ。
真智は混乱しながらもその動きに逆らわず、もしかしてさっきから黙りこむ須田の事に触れないのは、恭也のいうところの『躾』なのだろうかと、背筋を震わせた。

一ヶ月前まで見慣れていた部屋の中は、煌々と明かりが付けられ掃除も行き届いている。普通の部屋だ。そう思ってしまった真智は、リビングに足を踏み入れてすぐ、異常だと思い直した。

「兄さ、ん…」
「ふふ。せっかく真智が来てくれたんだし、今回はこれくらいで許してあげよーかなぁ。ほら椎名、おいで」
「恭也…!」

呆然とする真智をソファに座らせた恭也は、部屋の隅で縮こまって泣いている真智の兄、椎名を呼んだ。

パッと輝く兄の顔を、真智は五年ぶりに見た。
気まぐれな猫目が嬉しそうに眇られ、笑うとアヒル口になる唇が幸せそうに綻ぶ。

「恭也、もう怒ってない?ごめんね、たくさんたくさん反省したよ俺、ね、ごめんね、もうしないからね、許して」
「うん、いーよ。今回だけねー?」
「うん!うん!」

けれど、椎名は真っ先に恭也へ駆け寄りその足元に座り込むと、躾のいい犬のように恭也を見上げるばかり。
一度も、弟の顔を見なかった。まるで目に入っていない。血を分け、これまで一心に両親の目から守ってきたのは真智なのに。

「兄さん…」
「ねぇ恭也、今夜は何が食べたい?お詫びに好きなものを作るよ。だからよかったら、その、一緒に寝たいな」
「その話は後でね。真智が来てるんだから、おとなしくしててー」
「うん!」

恭也の一言で、椎名は口を閉ざしてソファの空いたところに頭を置いた。冷たく固いフローリングでは足も痛いだろうに、恭也によしよしと頭を撫でられただけで恍惚とした表情を浮かべている。

それだけでも異常だ。
なのに、椎名の首に嵌まった黒く厳めしい首輪と、そこから伸びる鎖が寝室の扉の隙間から繋がっているのは、もっともっと、異常だった。

「恭也、さん…兄は、どうして…」
「んー?かわいーでしょ」
「……僕はてっきり、あなたが閉じ込められているものだと」
「あぁ、そうしたかったみたいだけどね。でもさー、俺もう追いかけるのヤになっちゃったから」

田所の事を言っているのだろう。苦々しい顔をした恭也は、ふとリビングの入り口で目を見開いて立ち竦む須田に目をやった。
そして微笑む。軽い動きで手招くと、須田はビクリと肩を震わせた。

「薫は、どうしてここにー?」
「おれ、俺は…恭也の、傍に居たくて」
「そーなの?でも、俺はお前を好きにならないよ」

ひ、と須田が小さく悲鳴を上げた。そしてそれは椎名も同じで、伏せた肩に力が入っているのがわかる。

真智はただ黙って、三人の成り行きを見つめていた。
そして恭也の言葉を耳にし、全てを理解した。

「今は、ね」

『嫌われないように頑張ったけど、皆いつか俺を過去にする』
『必死になって追いかけるからダメなんだよねー』
『考えて考えて、捨てられなくて済む方法を取るだけだから』

一ヶ月前の恭也が、次々に真智の頭の中で囁いた。
追いかけてダメなら、追いかけられればいい。簡単な話だったのだ。

『俺はもう捨てられるかもって怖い想いしなくていーんだ』

今は好きにならない。
その一言で、兄は、須田は、期待を持った。
『いつか』好きになってもらえるかもしれないという、淡くて卑怯な期待だ。

「薫ー、おいで」
「…っ、あぁ」

須田は先程までの傷付いた姿を捨て、嬉しそうに恭也の元へ駆け寄った。
指先一つで示され床にひざまずき、恭也の顔色を窺う。
真智はもう限界だった。

「恭也さん…僕、用事を思い出しました。また来ます、から…必要なものがあれば、連絡をください。兄のカードを使っても構いません」
「そーお?わかったー」

真智は予め用意していた電話番号を書いたメモをテーブルに置き立ち上がった。
吐き気が酷くて、この部屋にはこれ以上いられない。

王者よろしくソファに座る恭也と、足元に侍る犬のような兄と男。これ程までに胸くその悪い光景を、この先の人生で見る事はないだろう。

「…恭也さん、しあわせですか」

それでも真智は、最後に一つだけ恭也に問うた。
次にここへやってきた時、首輪と鎖は増えているだろう。だから恐らく、真智はこの部屋に足を踏み入れはしない。

背を向けたままの真智に、恭也は笑い声を聞かせた。
真智は思う。ここまできてしまったのだから、周りや真智がどう感じようが、彼らが幸せであるなら何の問題もないのだと。そう、決めつけて逃げるしかなかったから。

「幸せだよー。だってねぇ………、」

真智はぐっと一度目を閉じ、それから黙って部屋を出た。
吐けない代わりに流れてくる涙に、全ての後悔を任せる事にした。

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