阿笠が去り真智が漸く腰を上げたのは、幾ばくか時が経ち教室の窓から見える夕日が半分に欠けた頃だった


「まったく…なんにも笑えないや」

兄と恭也の様子を知る事も叶わず、人としての情を試すようなやり方で須田を人質に取られている。真智は阿笠と会話したたった十分そこらの出来事が、全て夢であればいいのにとすら思った。

須田薫という名の、この学園の長とは、そんなに真智自身親しくはない。
真智の立場が志藤恭也親衛隊の隊長だというのもあるから、管轄する生徒会とはそれなりに面識はあっても、あくまで真智の親衛対象は恭也であり他に興味がないからだ。

しかし一度は恭也を任せてもいいかと思った人物で、期待虚しく役立たずと罵ったからといって阿笠に固められ沈められてもいいと思える程、真智は須田を嫌っていないし冷酷でもない。
誰だってそうだろう。自分の行動一つで人一人の命運が変わってしまうと言われ、非情にはなれない。阿笠のようなその筋の者には茶飯事かもしれないが、真智は一般人の枠を出ないのだ。

「……終わらせて、あげなきゃなんないよね」

阿笠に聞いた通り恭也の部屋へ向かいながら、真智は腹を括った。
阿笠の言葉は正しい。兄と須田との違いは、恭也が傍にいるかどうかだ。

もしかしたら今も須田は恭也を囲いこんで甘やかしていたかもしれないのに、須田から恭也を取り上げて兄の傍へ連れて行ったのは真智なのだから、せめて須田が兄のように、何年も精神を病む程一人を恋い焦がれる事のないよう、手助けをしてやるべきなのかもしれない。

かなり荷が重く気は進まないが、やるしかないのだ。みすみす生徒の長が消えるのを傍観する訳にはいかない。

「…あ」
「あ?」

須田の圧力か何か、生徒名簿からは除籍したにも関わらず部屋だけは残っているそこへ向かうと、扉の中から丁度人が出て来たところだった。
思わず上がった声に反応し、その長身は厳めしい顔を真智へ向け、途端に気まずそうに眉を下げる。不良のくせに頭脳明晰で生徒会の書記を勤める和野は、覇気のない表情を浮かべていた。

「和野君…」
「金本か。なんでここに?」
「会長と話がしたくて。中、いるの?」

問えば、和野はますます悲しそうな顔をする。誰よりも弄られキャラな性格といい、義父の邪な思惑に気付かない愚鈍な感覚といい、つくづく見た目を裏切る男だと真智は思う。見た目を阿笠と交換すれば、さぞ素晴らしい人間になれるだろうに。

「いる…でも、話せる状態じゃねぇよ。今日は特に酷い。もうすぐ一ヶ月だからな」
「いいよ。ダメだったら今日は諦めるから」
「…お前だってきょーや先輩居なくなって辛いのに、わりぃな。隊の方はどうなんだよ」
「大丈夫。皆ゆっくりだけど、表向き留学したっていうのを信じてるから、忘れられるはずだよ」

和野は一度頷いた後、何かを言いかけたがしかしまた口を閉ざし、真智に背を向けて自室へ戻っていった。

「僕はいつも…見送る側だ 」

兄も恭也も阿笠も和野も、真智を置いて背を向ける。ただ一人取り残されたような気になって、そしてそれはとても寂しくて心許ない感覚だった。

ならば、須田はどうなのだろうか。
真智は深く溜め息を吐き、すぐ傍の扉を潜った。

「会長…?」

一度も足を踏み入れた事のないこの部屋は、けれど恭也が居た頃から何も変わっていないのだろうと思わせる見た目を保っていた。
恐らく須田がそうしているのだろう。シンク横の水切り籠に伏せられたままのマグカップが、いつでも恭也の帰りを待っていると健気に言っているように見えた。

真智はリビングをぐるりと見回し、ソファの背にかけられたパーカーに触れる。夜にたまたまコンビニで会った時
恭也着ていたものだ。何故かそれだけで、胸が痛くて堪らなかった。

無理矢理ソファから目を逸らし、真智は須田を探す。
とはいえ真っ直ぐリビングに入ってきた真智の探せる場所は、水回りや寝室しか残されていない。

「失礼します、会長」

トイレや風呂にこもる可能性は捨て、真智は寝室の扉を開けた。
すると思い描いた通り須田はそこにいた。しかし、真智の想像よりずっと悪い状態で。

「会長…」

思わず唖然とする真智の視線の先で、須田は抱き締めて顔を埋めていた枕から顔を上げる。座り込んでいるシーツの海には、いくつかの恭也の物らしき私物と汚れたカッターが落ちていた。

既視感が酷い。五年前に見たのとよく似た光景が面前に広がって漸く、真智は須田の未来に激しい危機感を覚えた。

「…だめです、会長、そこに居ちゃ」

思えば真智が須田の姿を見たのはかなり久しかった。学年も違う。恭也を抜けば繋がりなどなく、じきにやってくる終業式などで壇上に立つ姿を見る、他の生徒と真智は何ら変わらない。
だから知らなかった。知ろうとすらしなかった。真智はまた自分が泣いている事に気づかぬ程、須田の壊れた涙腺から落ちる涙を見つめていた。

「そこに居たら…戻れなく、なりますよ」

あんなに優しい顔で恭也を見守っていた自信に満ち溢れた須田は、まるで別人かと疑うような頼りない表情で、嗚咽もなく真智を見ていた。
存在は今にも途切れそうで、覇気がない。よく見れば頬も少し痩けている。
恭也を失った須田は、もはや須田薫らしさをも失っていた。

「金本…」
「会長、志藤様の事はお忘れになってください。でなければ、あなたが壊れてしまう」

真智にはわかる。椎名を見てきたから。
会えなくて辛くて、記憶を辿るように何ヵ月も自分の中に籠り続け、やがて精神を病んでいく。現実と思い出の境界線があやふやになった時、兄はきっと生きている実感を忘れたのだ。

このままでは須田も同じ末路を辿る。もしかしたら椎名と須田には似た気質があったのかもしれない。
もしくは、ただ尊敬していた真智にはわからない何か、恭也のとんでもない魔力のようなものが椎名と須田を掴んで離さないのかもしれない。

「お願いします。早く忘れて…元の会長に戻ってください。きっと、何もかもが懐かしく思える日がくるから…だから…」

既視感は消えてくれない。
かつて椎名に向けて何度も訴えた言葉を、真智は必死で須田に投げ掛けた。
失った痛みはいつか癒えるはず。時が記憶を優しい思い出に変えてくれる。成長していくにつれ、今日の日を噛み砕ける時が必ず来る。

真智はそう思っていたし、そうであってほしいと願ってもいた。

「なら」

須田が笑う。真智はまた既視感を覚え、眩暈に耐える為足に力をいれた。
のっそりと立ち上がって近付いて来る須田の目に光はない。

「恭也を返せよ、金本」
「か、いちょう」
「忘れるくらいなら今すぐ壊れてやる。それが見ていられないなら…ここに恭也を連れてこい…!」

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