静まり返った教室で、真智はハッと顔をあげた。

「あ、れ?」

記憶に残る最後は、確か昼休み後の地理の時間に嘆く級友の泣き言だ。六時限目は数?の授業があったはずなのに、真智の他教室には誰も居なかった。

それもそのはず、見上げた時計はとうに放課後の時刻を指している。どれほどボーッと自失していたのか、真智は頭が痛い気がしてこめかみを押さえ、ゆっくりと机に伏せた。

ーーもうすぐで約束の一ヶ月になる。
恭也の言葉は一字一句違える事なく、真智に刻まれていた。

一ヶ月、とは何か。どうして一ヶ月なのか。そしてそのタイムリミットの中に何があるのか、真智は日夜考え続けている。しかし答えは出ず、実は何度か学園を抜け出してマンションを訪れたが誰も応答してはくれなかった。

今となっては中で兄がどのように過ごし、恭也がどうなっているのか知る術はない。
今までなら兄を監視する人員も居たが、それは他ならぬ真智の手であの夜に本家へ戻した。兄はもう無理だと、両親への連絡と共に。

そうしなければ恭也を与えられないし、この学園から消す事が出来なかったからだ。企てた真智自身をもあの部屋から除外されるとは夢にも思っていなかった。

いや、本心では少し、ホッとしている。
兄の未来を完璧に諦め、恭也の存在を隠して、二人が壊れていく様を見たくはなかった。傷付かない、とはよく言ったものだ。間違えて後悔して立ち上がって生きていくのが人間なのだから、いくら二人が好きだからといってぬるま湯の中に閉じ込めるべきではなかったのかもしれない。

それも後の祭りだ。あの二人には他の道ももしかしたらあったのかもしれないが、真智に選べる選択肢はもう他になかったのだから、どうしようもない。

(せめて、あと少し…前を向いて生きていける強さを持っていてくれたなら、なんて。…僕は、他力本願で最低な人間だ)

諦めを優しさという名の毛布で包み、二人に目隠ししたのは真智なのだから。この胸の痛みも罪悪感も、後悔ですら真智一人で背負うべきのものだ。だから、泣き言は絶対口にしてはならない。真智が今出来る事は、約束の一ヶ月をひたすら待っている事だけなのだ。

「うまい事やってくれたね」
「…っ!?」

ぼんやりと伏せていた身体を、真智はバネのように勢い良く跳ね上げる。
誰も居ないと思っていた教室で唐突にかけられた声は、すぐ後ろから聞こえた。

「なっ、え…阿笠、君」
「何さ、クラスメイトの顔を見てそんなに驚かないでよ。俺今日日直だからさ、起きるの待っててあげたんだよ?」

振り返った真智は、見慣れた級友の姿を見止めて逸る鼓動を感じていた。
まさかこんな風に二人になるとは思いもよらなかった。いや、むしろこうなるのは遅いとも言える。恭也を連れ去った時、彼を探す者達の中には勿論阿笠も居て、そしてこの阿笠という生徒にだけは危機感を覚えていた。

「…そう。ごめんね、すぐ帰るよ」
「まぁまぁ、そんな逃げなくていいじゃん。少し話そうよ」
「話すことなんてないよ?阿笠君、生徒会室行かなきゃでしょ?」

立ち上がった真智の服を、阿笠は読めない笑顔で控えめに掴む。振り払おうと思えば出来る程度の拘束が逆に不穏で、真智は警戒心を隠せなかった。

「ううん、特に急ぎの仕事はないから平気。それにね、会長がご乱心だから」
「……」
「恭也先輩が居なくなってからすごい情緒不安定なんだよねー。今日はダメな日。朝から恭也先輩の部屋でずっと泣いてる」

阿笠の口から聞かされる内容のどこにも笑える要素はないのに、彼自身は何故かクスクスと笑っている。まるで映像と音声が噛み合っておらず、真智は得体の知れない気持ち悪さを拭えなかった。

「そう…会長、志藤様のお部屋に…」
「可哀想でしょ。懐かしい、かな?お前の兄と同じ末路を辿ってるんだから」
「なんの事?」
「さぁね。でもお前の兄と違うところが一つだけあるよ」

ぐ、と掴んでいただけの服を引かれ、真智はやむを得ず椅子に座り直した。一瞬の隙すら命取りになりそうな空気に、ゴクリと喉がなる。

「お前の兄は欲しいものが手に入ったけど、会長にそれが与えられる時は来ないって事。ほーんとに可哀想。せめて立ち直れるように祈るしかないね」

真智は歯軋りした。
恭也を連れ去る前も後も、阿笠は何一つ真智に仕掛けてこなかった。どうやら全て知っているらしいのに、だ。
傍目から見れば阿笠も恭也を気に入っていたはずなのに。

「…何が、言いたいの。僕を脅すつもり?その口ぶりだと、知ってて今まで黙ってたみたいだけど」

今更になって、恭也を取り返そうとしているのだろうか。
兄から、真智から、恭也を。そして須田にあげるのだろうか。可哀想な須田に。

睨み上げる真智は敵意を隠さない。
けれど阿笠は、その鋭い眼光にも笑顔を崩さなかった。

「脅すなんて、まさか。俺は何もしないよ?むしろ褒めてるんだ。この俺を出し抜いて綺麗に恭也先輩を消せた君の手腕に。この分だと実家の会社も安泰だ」
「……」
「嫌味じゃないし責めてないよ。いずれはこうなる運命だったのかもしれないし」

運命だなどと、めっきり無縁そうな言葉を口にする阿笠が妙に憂いた表情で肘をついた。作り物みたいだ。真智はそのわざとらしさに嫌悪を感じ、堪らず顔をしかめる。

「阿笠は…志藤様が好きだったんじゃないの?会長とくっつけたがってたじゃない」
「あぁそれね。別にあの人じゃなきゃって訳じゃないから」
「なら、なんのために?」
「頼まれてるからだよ。ただそれだけ。最終的に恭也先輩が腰を落ち着けられたなら、何も言う事はないんだ。だから金本のした事を責めるつもりは毛頭ないよ」

ただね、と阿笠は言い、上目に真智を見る。
その瞳の奥に何が渦巻いているのか、断片的な情報からは知りようがなかった。

第一、この阿笠という男はどうしても得体が知れないのだ。
その快活な口から吐き出される言葉を鵜呑みにしてはならないと、本能が警鐘を鳴らしていた。

「俺さ、自分が回りを引っ掻き回すのは嫌いじゃないんだけど、引っ掻き回されて後処理するのはどうにも好きになれないんだよね。ついつい手を抜いちゃってさ、もー怠いから固めて沈めとけば?て言っちゃうんだ」
「…僕に何をさせたいの」
「お前が動いた後遺症をさ、綺麗に治してちょうだいよ。うざいから、須田。あれどうにかしといて。田所はさっさと学園辞めたし、和野は無害だからいいや」

ケロリと言われ、真智は言葉を失った。真智は自分の行動が非人道的なのだろうと自覚していたが、彼の言った事はその上をいくような気がする。
暗に、真智がどうにかしないと阿笠が須田を沈めてしまうかもしれないと言われたのだ。固めて沈めるの意味は、阿笠のバックヤードがヤクザ者であると知っているだけに冗談とは思えない。

「なんで…仲、よかったでしょ、阿笠」
「使い物にならなくなったらうざいだけじゃん。元通りになるか、いっそ消沈してくんないとそろそろ俺も我慢の限界。簡単だろ?元通りにすんのは難しいかもだけど、潰すのは。事実を教えてあげなよ。ね?」

ガタリ。立ち上がったのは阿笠だった。教室の鍵を真智の手に無理矢理握らせ、清々しいとばかりに背伸びしてから鞄を担ぐ。

「頼んだよ。期限は…そうだなぁ、あんたが恭也先輩のところに行く日まで。別に放っておいてもいいけど、その時は皆の憧れ生徒会長が目もあてられない結末を辿るかな。…逃げられないよ。俺の目はどこにでもあるからさ」

阿笠は言うだけ言って満足したのか、振り返りもせず去っていく。
真智はその背をただ見送り、足音すらも聞こえなくなった頃クシャリと顔を歪めて両手で覆った。

それは脅しというんだよと、一言かける事は叶わなかった。

前へ 次へ
Mr.パーフェクトTOP