あの兄をこんな目に会わせた男を、真智は許してやるつもりなど毛頭なかった。
キラキラといつも輝いていた笑顔を曇らせる程の男とは、一体どれだけのいい男なのだろう。今も笑っているだろうか。兄がマンションに閉じ込められ、監視され自由のない身に苦しんでいる間、どんな自由を謳歌しているのだろう。

考えれば考えるほど真智の恨みは募った。どうにかして失脚させてやりたかった。そして真智は、兄を立ち直らせたかった。

人を呪わば穴二つ。
そんな風に他人を憎んだから、罰が当たったのだろう。
かつては恨んだ。しかし恭也を一目見たその時、死んだ目を、兄のせいで傷ついた綺麗な先輩を兄と無関係の場所で支えたいと願ったはずなのに、今こうしてこの部屋に来てしまったのだから、因果と呼んで差し支えないはずだ。

「部屋、真っ暗だねー」
「ここはいつも、そうですよ。恭也さんが電気をつけてあげてください」

最上階フロアのど真ん中にある扉に着き、真智は指紋認証式のロックを解除した。
恭也は不思議そうにその過程を眺め、また真っ暗な窓に目をやる。夜のここはいつもこうだ。闇が兄の心を表しているみたいで真智は嫌いだった。
しかし今夜からは、この部屋に明かりが灯るだろう。そして二度と消える事もないだろう。恭也がいるから。

「ねー真智」
「はい」
「また会える?」

ドアノブに手をかけた真智に、恭也はポツリと問いかけた。
扉を開く寸前で動きを止める。背後の恭也に知られぬよう、真智は悲痛に顔を歪めた。

「…恭也さんが、僕に会いたいと、思ってくださるのならば…きっと」

それが嘘になるのか、真のままでいられるか、真智にはわからなかった。だからこの言葉は、単に真智の希望の音だ。
そうであってほしいと願うしか、真智は術がないと知っていた。

「…開けないのー?」

ぐ、と手に力が入る。開けろ。開けて兄をこの広い家の中で探し、連れて来たよと言うまでが真智の仕事だ。
外に出ている昼間は辛うじてまともな人間を装えているようだが、ひとたび部屋に帰り真智が顔を出すと、何を話しかけても恭也恭也恭也と恭也の名ばかり口にして泣く兄に、今日はとうとう本物の恭也を与えるのだ。
今までの、偽物と違う恭也本人を。

しかし真智の手はそこから先の動きを拒むように、鉄の如く固まったままだ。
頭とは別のところ、心とか身体とかいう部分が全力でここから先を拒否している。

じわりと飽きもせず浮かぶ涙が、顎を伝って靴横のタイルに落ちた。

「…俺ねー、たいちょーがさぁ、大好きですってゆーの、あんま信じてなかったんだー」

動かない真智に暇をもて余したかのような気楽さで、恭也は口を開き始めた。
真智はこれ以上涙が零れないよう強く目を閉じ俯いたまま、じっと耳を傾ける。

「どーせいつか好きじゃなくなるくせにさーって、そんな風に思ってた。嫌われないように頑張ったけど、皆いつか俺を過去にする。ふくかいちょーも、きっと、かいちょーだってそだよ。だからさー、俺も色々考えたんだ」
「何を、ですか?」
「ふふー。必死になって追いかけるからダメなんだよねー多分。真智はさ、ここには優しさと安心と安泰があるって言ったよね。俺のために作られた愛情に満ちた場所だって。…なら、俺の予想通りここに椎名が居るなら、俺を求めてるなら、」

真智は息を飲んだ。

「俺の好きにしていーんだよね?」

まさか恭也が、人に翻弄ばかりされてきた恭也がそんな毒のある笑い声で、そんな言葉を吐くとは思わなかったからだ。

ここに連れて来たのは真智だ。
しかし勿論本意ではなく、兄と会わせたくなかった。しかし恭也は違うのだろうか。兄と会い、兄を好きにすると、どんな意味で言ったのだろうか。

「き、恭也さん、それは、どういう…」

真智はとうとう扉から手を離し、くるりと後ろを向いた。
小さくて華奢な真智は、見上げないと長身の恭也の顔を見る事が出来ない。
廊下の明かりを背負った恭也を、初めて怖いと思った瞬間だった。

「真智は後悔してるね。でも、俺はそーでもないよ。ここに着くまでの間に考えたから。考えて考えて、捨てられなくて済む方法を取るだけだから」
「それはつまり…兄を」
「俺に会いたくて壊れちゃったんでしょ。最高だよねー、それって。俺はもう捨てられるかもって怖い想いしなくていーんだ」
「でもそれは兄が、あなたを好きだからで、そしたら…っ」

ここに来たという事。
兄に恭也を与えるという事。
その中には、隔離していた間に凝り固まった気持ち悪いくらい一途な恋心を、恭也に受け入れろと強制しているのと同じ意味が含まれている。
今まで誰ともそういった関係になった事がないのは知っていた。だから、真智は辛かったのに。

「いいのですか、兄は絶対あなたを離しませんよ」
「いーよ。だってここは俺のための場所なんでしょー?」

言いたい事はわかっている。だからなに?
そんな目で見下ろされ、真智は言葉を飲んで拳を握った。

真智の知っている志藤恭也は、こんな顔をする人ではなかったはずだ。
こんな風に、何もかもを諦めた無機質な目で、世の中を蔑むように見る人じゃなかったはず。

「…恭也さん…っ、確かにあなたは僕がここに連れてきました。誰と居ても傷付くなら、僕の兄と居た方がいいと勝手に決めてしまいました。ですが、本当によかったのですか…?兄はあなたを離さないし、僕はあなたを元の生活に戻す気は、ありません。友人も親兄弟も会わせません。ここで、兄と二人で、いつまでも生温く生きててほしいと思ってます。本当に、それで…逃げるなら、今のうち、です。僕一人しかいない、今だけなんです」

連れて来た張本人の台詞じゃない。真智はよくわかっていた。しかし言わずにはいられなかった。あまりにも恭也が恭也という存在を雑に扱っているように思えてならなかった。

けれど恭也は黙って真智の訴えを聞き、それから少し微笑んで自分より低い位置にある頭を撫でた。

「真智、また会える?」
「恭也、さん…」
「一ヶ月くらい経ったらさー、会いに来てよ。三人で話しをしよーよ、ね」
「まっ、恭也さ…、志藤様!」

ニッコリと笑った恭也は、真智を押し退けてドアノブを捻る。
制止も虚しく部屋の中に消えていく恭也を見つめる真智に、恭也はほの暗い瞳を取り繕いもせず、手を振った。

「一ヶ月経つまでは、絶対来ちゃダメだよ」

そう一言だけを残し、恭也は閉ざされていた空間に身を投じたのだ。

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