金本2


手配した車に乗り込んでも、恭也は何も言わなかった。
性能のいい車の中では、僅かばかりのエンジン音と真智の小さな泣き声だけが、時間が止まっていない事を知らせる唯一だった。

何故、何も言わないのだろうか。
真智はもう水分を含む余地のない袖口で、今一度強く目尻を拭い隣に顔を向ける。
真っ直ぐに前を向いているように見えてその実何も映していない恭也の目は、また真智を泣かせる要因となった。

「どうして、何もお聞きにならないんですか」

金本、と今まで一度も名乗らなかった姓を口にした意味を、普通ならば問うべきだ。
何も隠さないと決めたとは言え、恭也に問われなければ話せない。確実に訊かれるだろうと思っていた兄の椎名の事が、真智の腹の中でぐるぐる絡まって蠢いているようだった。

「さぁ…何か、きかなきゃいけないこと、あったかなー…?」
「それは…っ、でも、志藤様は、兄に、椎名に傷付けられたから、」

だから田所につけこまれ、今こうして学園での生活を捨ててきたんじゃないんですか。

勢い勇んで口走りかけた真智は、微かに微笑む柔らかい声を耳にしてハッと我に返る。
握り締めた拳を包んだ手のひらは、尊敬し支えになりたいと望んだ人のものだ。例え一度、酷く恨んだ事があったとしても。

「俺はねー、真智。さっき学園の門をくぐった時に…ぜんぶね、捨てたんだー」
「志藤様…」
「恭也って呼んでよー、もう俺にはなんにもないからさ」

真智が見つけた時のような頼りない悲壮感は、今恭也の傍にいなかった。
まるで本当に捨てたと言わんばかりに、むしろ初めから何も起きていないんじゃないかと思う程普通に、男は笑う。

その痛々しさが辛くても、真智には泣く事しか出来なかった。

間違っていた。間違いじゃない。間違いだといってはいけない。これでいいんだ。本当に?
ぐるん、ぐるん。吐き気すら催しそうな気分の悪さに、真智は耐えきれず俯いた。

「それにさー、話したくないって、顔に書いてあるよー?」
「え…」
「言いたくないんでしょ、椎名の事。どこに行くのか、どうなるのか…。真智、すごく後悔してるみたいな顔、してるよー」

俯いたままの真智を、恭也は手のひらでポンポンと撫でた。真智は何も言えず可哀想な男に、でも、でもと口走る。

これから向かう場所がどこで、そこには誰がいて、どうなるのか。そして今日に至るまでの経緯を、確かに真智は話したくなかった。
その中には、恭也を傷付けるものも含まれていたからだ。
それでも話しておかなければと思ったのは、話した方が傷を受け止めるクッションになるとわかっていたから。

けれど恭也は真智の頭を撫でるばかりで、ふふと小さく笑ってみせた。

「いーよ。聞いても聞かなくても、何も変わんないから。見ればわかるんだから。もーね、人の言葉は怖いばっかで、それなら自分の目で見たものだけ、知ってたいんだ」
「志藤様…っ」
「でもそれじゃー真智が辛いかなー?ならさ…一個だけ聞こーかな」

顔をあげる。
恭也は相変わらず張り付けた笑みのまま、至極どうでもよさそうに問いかけた。

「椎名、元気?」

真智はゆっくりと首を横に振り、下手くそに笑った。

「いいえ。あなたに会いたくて、そればかりで、壊れてしまいました」

そう。一言だけで頷いた恭也は、真智の手を握り直してまた前を向いた。

+++

兄がおかしくなったと聞かされたのは、真智が小学六年生に進級して暫く経った頃だった。

真智にとって兄の椎名は憧れの象徴だった。
溌剌としていて利発で、どこに行っても友人に囲まれ、教師からの信頼も厚く両親に期待されている兄。引っ込み思案で小さな頃病弱だった真智にとって、椎名は理想の男だった。

兄のようになりたい。いつか、兄に認められたい。そんな風に思っていたし、椎名も自分を尊敬してくれる弟にいつも色々な事を教えてくれた。

兄の通う中学は全寮制の進学校だったから、目下真智の目標は兄と同じ中学を受験し受かる事だった。日夜勉強に明け暮れ、兄が居ない間は兄の代わりに父と母を守るんだ、と決めていた。

しかし夏休みを来月に控えた六月、真智は両親に信じられない事実を聞かされた。

跡継ぎは兄であったはずなのに、唐突に、真智に跡を継がせるかもしれないと言われたのだ。
将来は兄の下で兄を支えようと決めていた真智は混乱した。あれほど期待され授業料の高い中学にわざわざ行った兄を、何故跡継ぎから外すのか意味がわからなかった。

そんな真智に、両親は非情にも包み隠さずすべてを伝えた。

かねてから両親が勧めていた将来の伴侶となる女性との交際を、椎名は蹴ったのだそうだ。
理由は、好きな人がいるから。
それだけならまだ両親も納得しただろう。けれど相手が悪かった。

椎名の恋した人が、男だったから。

+++

「恭也さん…いきましょうか」
「うん」

目的地で車を降りた真智は、ぼんやりと目の前の高層マンションを眺める恭也の手を引いた。

ここは椎名の家だ。いや、家とは名ばかりの檻かもしれない。
何がなんでも息子の気の迷いと決めつけたかった両親は、地元の中学に兄を放り込みこのマンションに閉じ込めた。その内、可愛い女の子を彼女なんだと紹介される事を期待して。あの時はごめんなと、男に恋した過去を謝罪してくれると夢見て。

しかしそんな両親の願いは、今も叶えられていない。
ここに椎名が変わらず住まわされているのが、その証拠だ。
もう、ほとんど両親は諦めている。せめて息子が取り返しのつかない事をしでかさないようにと祈っている。
ここに椎名の様子を見に来るのは、完全に後継者として扱われて久しい真智だけだ。だから椎名の壊れ具合を知っているのも。

「たかいね…何階ー?」
「一番上ですよ。一番上、全部」
「すごいねー」

やはりどうでもよさそうに言い、恭也は真智に着いてエレベーターに乗り込んだ。

上昇していくエレベーターの中で、真智はぼんやりと思い返す。
あの頃は想像もしていなかった。あの素晴らしい兄をおかしな道に引きずり込んだ恭也を追って、学園を受験した頃の真智は、何も知らなかったから。

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