夕暮れの美しい住宅街を、俺は和野君と歩いていた。
手にはリード。その先には、誰も何も言わないからいつ聞けばいいのかわからなかった、ゴールデンレトリーバーが歩いている。

和野君のトンチンカンな質問に適当な答えを寄越したアキさんが笑ったのを見て、俺は漸く「ところでそのワンコはー?」と聞く事が出来たのだ。
ちなみにこの質問にも、アキさんは適当な答えしかくれなかった。
曰く、可愛いでしょ?だ。全く意味がわからない。

「この子、名前はー?」
「さぁ。きょーや先輩付けていいっすよ」
「まーじーで?いーの?」
「いっすよ」

軽く笑った和野君は、二人の間をトテトテ歩くクリーム色を見下ろす。
俺も同じようにワンコを見下ろして、思いの外プリプリしてて可愛いお尻につい吹き出した。

「じゃーね、あんみつにしよー」
「くはっ、なんであんみつ?」
「きなこと迷った」
「わかった、それ今食いたいんっしょ」

ケラケラ笑う明るい声が、赤らんだ空へ溶けていく。
あれ、これって幸せなのかも。そう思ったら、自然とにやけてしまうから可笑しい。

「おーい、てめぇの名前は今日からあんみつらしいぜ」
「呼びにくいからアンだねー」
「それもうあんみつにする意味ねぇっすよ」

俺達の会話なんて何のその、アンはマイペースに地面を嗅ぎながらズンズン進んでいく。
俺はリードをしっかり握り直して、風に遊ばれた髪を撫でつけた。

「きょーや先輩さぁ」
「んー?」
「聞かねぇんすか。あのあと、あいつらがどうしてる、とか」

俺は黙ったまま、アンの揺れる尻尾を見つめた。
横顔に刺さる視線はそこまで痛くなくて、純粋な興味で聞かれてるんだって事はわかる。和野君が誰を指して言ったのかも勿論。

「…うん、聞けないなー」
「聞けないんすか。聞かないんじゃなくて?」
「俺逃げたかんねー。聞く権利ないってゆーか、気にしちゃダメな気がする」
「聞きたくないだけじゃないっすか?」
「…そうかもね」

俺が居なくなっても、副会長が全くいつもと変わらなかったら?
会長が、新しい誰かの傍で、幸せそうに笑い合っていたら?

逃げたのは自分のくせに、その想像はとても痛い。自分勝手な思いだ。だから聞けない。悲しみたくないし、悲しくなる汚い自分を自覚するなんて嫌だから。

和野君もそんな俺の我が儘を理解したんだろう。暫く何か考え込んでいたけど、わかったと言ってそれ以上突っ込んでこなかった。

「じゃあさ、あれ本気?」
「どれ?」
「うちの息子になるって話。アキがすげぇ乗り気だったけど」
「それは…」

アキさんは乗り気だけど、和野君はどうなんだろう。
なるよ、と言っていいのかどうか口ごもると、手持ち無沙汰だった左手に大きな手が重なった。
驚いて左隣を見上げる。和野君は、ニカッと少年らしく無邪気な笑みを浮かべていた。

「俺は、きょーや先輩が家族になったら楽しそうだなって思ってるっすよ」
「え、ほんと?」
「ほんとほんと。すげぇびびったけど、嬉しかったし。俺きょーや先輩の事尊敬してるし、可愛いって思ってるし、家に帰ってきょーや先輩が居たら幸せだろうなって思う」
「和野君…」

裏表のない素直な言葉が、俺の不安を溶かしていく。
何一つ返せない俺なんかを、アキさんと和野君はこうして家族になろうと誘うのだ。不思議で、馬鹿馬鹿しくてーーとても幸せな気持ちになる。

おかしな人だ。血は繋がってないにしても家族だった人達に捨てられ、親友に裏切られ、信じていた副会長にいらないと言われた俺が居たら、幸せな気持ちになるだなんて。

「嬉し、なー…なんでそんな、二人して、俺を喜ばすのが、じょーずなの…っ」
「泣く?いいっすよ。嬉しい時の涙なら」
「ばーか、和野君のばーか。…俺、家族の中に入れてくれる…?邪魔に、なんない…?」

重なっていた大きな手が離れ、まだ零れる前の涙をぐしっと拭っていった。乱暴な仕草に笑う。痛かったけど、やっぱり嬉しかったから。

「邪魔じゃねぇよ。元々うちは、歪だから。他人が三人で家族しても、おかしくねぇっしょ」
「うん…っ」
「はは、泣きすぎっすよ。ほら、アンがすげぇ不思議そうな顔してっし」
「へへっ、だねー」

目を擦る俺がつい立ち止まったのに合わせ、アンは何で止まるの?と言いたげな顔で振り返り、アウと小さく鳴いた。子犬らしく高い鳴き声は、初めて聞いたけど可愛らしい。

「よろしくね、和野君」
「っす。てか、俺ら兄弟になるんすよね?」
「うん?そーなのかな。そーだね」
「じゃあきょーや先輩が兄貴かぁ」

ムズムズする単語がやけに気恥ずかしい。今まで兄弟ってものには無縁だったから、その枠に自分が入る事まで考えていなかった。

「俺のが、頼りないのにー…」
「ありっすよ。あ、なら先輩って呼ぶのも変っすね。兄貴?兄ちゃん?」
「や、やだ、普通に名前で呼んでー」
「何で照れてんすか」

年下なのに自分より背が高くて、しっかり者で強そうな和野君に兄と呼ばれるのは、羞恥でしかない。
パチリと手のひらで顔を隠し、俺はふと思い付いた事を言ってみた。

「…じゃーさ?俺も、和野君って呼ぶの変だよねー?」
「確かに」
「拓海君?それともたくちゃん?もしくはたっちゃん…どれがお好きー?俺のお勧めはねー、たっちゃん」
「却下っす。俺双子じゃねぇし、野球もしてねぇっすから」
「じゃあみなみちゃん!」
「戻ってこいお兄ちゃん」
「やーめーてー!」

どうでもいい言葉を交わしながら、俺たちは家への道を辿る。
兄と弟と、小さなゴールデンレトリーバーの影は、その背後へ長く伸びていた。

この日確かに俺は、家族を手に入れたんだ。

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