和野1


ーー次は終点、ーー駅、ーー駅。お降りのお客様はお忘れもののないようーー。

「……」

聞き慣れない鼻声が、微睡む俺の耳に雑音として届いた。
二人掛けのシート奥に腰掛け、行儀悪く靴を脱いで膝を抱いていた俺はゆっくりと顔を上げる。

暗い街を駆け抜けていく車窓に映った顔は、見れたものじゃなかった。
酷い表情だ。見慣れている自分ですらそう思うのだから、すれ違う人にはもっと酷く思われるかもしれない。

まぁ、そんな事はもう、どうでもいいのだけれど。

「どこ…かなー…ここ」

冷静になれ。冷静になれ。
そうやって混乱した結果、俺は今どこにいるのか把握していなかった。
車窓にはうんざりした顔が映るばかりで、景色に目を凝らす気にもならない。

それでも、見知らぬ場所へ来れた事は自分を褒めてやりたかった。

いらない、と言われたから。
新しい持ち主は会長らしいけど、きっとまた捨てられてしまうから。
冷静に考えて、あの場所で命を終えたら、きっと俺は最期まで役立たずになってしまうから。

(もうこれ以上嫌われたくない。あの人を煩わせるだけの存在には、なりたくない)

それなら、誰も俺を知らない所で。ひっそりと、何にも悟られずこの生を終えてしまいたかった。

「とりあえず…降りなきゃ」

ガタンゴトンと車体を揺らし、やがて電車は寂れたホームにその身を滑り込ませた。
寝間着代わりのスウェットのポケットには、電源を落とした携帯と、何とか会長の部屋に取りに戻れた財布、それだけしか入っていない。俺はそんな軽い身体を、止まりきらない電車の中で動かした。

フラりと扉の前に立ち、やけに眩しいホームを眺める。
停止した車内から、人っ子一人いないホームに俺を含めて数人の乗客が降り立った。

(あのサラリーマンも、あっちの酔ってる人も、今から家に帰るんだろうな)

不審な男に見向きする人なんて一人もいない。皆、自分の行く先しか見えていないからだ。

その無関心は心地よくて、呼吸が楽になる。寂しさや心細さは、今の俺にはあまり感じられなかった。

まばらな人を追うように、ゆっくり改札へ向かう。
適当に買った切符を改札機の中へ滑らせようと、した時だった。

「君、高校生だよね?」
「…おれ?」
「そう。君」

改札横の小部屋から出てきた駅員が、真面目そうな顔を優しく微笑ませて俺の肩を叩く。
パチクリ瞬く俺を頭の先から足まで見て、それから苦笑いを浮かべた。

「一人?身分証は?」

私服だからと油断していたが、俺の顔はそれなりに未成年に見えるみたいだ。
しかし身分証もなく、一人で日付の変わった電車から、更に手ぶらで降りてきた子供だとばれれば、補導されてしまうかもしれない。

そうされれば、俺は確実に学園へ逆戻りだ。

(それだけは嫌だ。どんな顔をして、あそこに、あの人のところに、戻れっていうんだ)

しやすかったはずの呼吸が乱れそうで、俺は慌てて笑顔を思い出して取り繕う。
大丈夫。出来るはずだ。今日のお昼休み、可愛い後輩達と笑い合った事を思い出せばいい。

「高校生じゃ、ないですよ」

精一杯、微笑んでみる。
しかし、俺の笑顔の出来が悪かったのか、駅員は騙されてはくれなかった。

「じゃあ身分証見せて。申し訳ないんだけど、こういうのも仕事なんだよ」
「それは…っ」
「見た感じ高校生みたいだし、バイト帰りって時間でもないだろ?…それに、死にそうな顔してるよ」

駅員は心苦しそうに、俺の肩へ手を置いた。

「一度駅員室に来てもらっていいかな?」
「や、あのっ」

俺を不審な高校生だと確信している駅員は、肩に置いた手で寂れた扉までの数歩を促す。
抗い難い感覚に足を踏み出すしかなくて、俺は泣く寸前のような無力感にただ戸惑っていた。

ーーその時だった。

「あ、いたいた。もう、いくらなんでも兄貴ほっぽってくのは酷いよねぇ、…って、どうしたの?」

突然俺と駅員の間を裂いた、場に似つかわしい朗らかな声。同時に、駅員の持つ肩とは反対に、ポスンと馴れ馴れしく置かれたスラリとした手の感覚。

「…え?」

振り返った先にいた知らない若い男は、キョトンと眠そうな瞳を丸くした。

「この子のお兄さんですか?」
「そうだけど、え、うちの弟が何か…?」

何がなんだかわからない。
けれど、何故か俺を弟と主張するその人に、今は賭けるしかないと脳みそが指示を出す。
だから俺は咄嗟に、その人の背に隠れ淡い色合いのシャツを握った。

「あ…兄さん、おれ、高校生と間違われてて…」
「そうなの?すみません、うちの子よく高校生みたいって言われるんですけど、卒業してますよ」
「あぁ…そうでしたか。それは失礼しました。あまりお兄さんに心配をかけてはいけないよ」
「うん、わかった…」

あっさりと態度を変えた駅員は、気を付けて、と一言残して一人で扉の向こうへ消えて行った。

閑散とした改札機の前には、俺と男の二人だけ。
そっとシャツから手を離すと、すかさず彼は自然な動作で手のひらを繋いだ。

「よかったねぇ。じゃ、帰ろうか、恭也」

ーー何故、俺の名前を知ってるの。

そう問えない俺は、小さく頷いて改札を潜り抜けた。

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