「じい、ちゃんが…?」
「そう。お前が孤立しないように。おかしな道に進まぬように。いつか…また、家族の元に戻れるように。俺は、監視と護衛の為にお前に近付いた」

そっか。そういうこと。

恭也は短く息を吐き、全て諦めた顔で微笑んだ。

彼は察したんだろう。あの日俺が近付いた真意も、突き放した意味も。けれど違う。俺の感情は、彼の予想から外れている。

「…じゃあ、もう、拾わなくっていー、よ。田所くん、は…俺が居なく、なれば、自由でしょ…?」
「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。俺はね、恭也…」
「うん…?」

冷たくなった恭也の手のひらを、自分の頬に押し当てた。
血の匂いはいつの間にか慣れ、ただ、濡れた感触だけがそこを震わせた。

「もう…つかれたんだ」
「つかれた…?」
「うん。家族を盾に脅されるのも、飼われ続けるのも、…お前に冷たくする、のも」

そうだ。俺は、辛かった。
情さえ沸かなければ、憎いだけで居られれば、きっと楽だったはずなのに。

抱き締めたいと思う度、己の境遇を憎んだ。
例え心を交わしたとしても、俺の立場では近い未来に彼を手離す事が決まっていた。

感情だけで突っ走れる程子供ではなく、理性で諦められる程大人にもなれない俺は、子供みたいな理論で、大人のように距離を挟む事しか出来ない。

「俺がお前に優しくしたいって思うのは、駄目な事なのかな」
「田所くん…」
「須田みたいに傍に居て、和野や阿笠みたいに笑って話をしたいと思うのは、間違ってる…?」

目から溢れた何かが唇を濡らし、口の中は塩辛さと錆びた味でグチャグチャになった。
それでも俺はどの液体も拭わず、恭也の唖然とした顔を見続ける。

「お前だけを連れて、どこかへ逃げたいって言ったら…恭也は、どうする?」

恭也は目を見開いた。
それから数秒か、数分か。麻痺した時間の感覚が、短いようで長い沈黙を覆い隠す。

そして漸く恭也が口を開いた頃、すでに彼は息も絶え絶えだった。

「何が、正しくて、何が間違、ってるのか、俺には、わかんない…でも、ね」
「うん」
「たくさん、頑張った、んだね。すごいね、田所くん…いーこ、いーこ」

力の入らない右手からカッターを落とし、恭也は焦れったい動きで俺の頭を撫でようとした。
結局、血を出し過ぎた彼はボトリと腕を落としてしまったけれど。

「俺、頑張ったのかな」
「うん、そーだ、よ。辛かったね…よしよし、してあげれなくって、ごめんね」
「いいよ。これから先たくさんしてくれれば」
「出来ない、よ」

もう無理だよと、恭也の表情が言っていた。
視界が滲む。こんな簡単に恭也の傍に居られるなら、もっと早くいらないものを捨てればよかったのだ。

恭也だけを持って、逃げればよかった。嬉しくて愛しくて、それから少し怖くて、俺は泣きながら笑う。

あの日は、なんて言ったんだっけか。

「…恭也、血液型は、何型?」
「…えー、びー、だよ」
「じゃあ、俺と同じだね。俺の血、あげるよ。だから…」
「ん…?」

僅かな声ですら上げるのが辛いのか、恭也は蚊の鳴くような小さな音を立てた。

「俺と一緒に逃げない?」

やり直すんじゃない。
新たに、俺たちを始めたい。

「ここじゃないどこかに、二人きりで…誰にも邪魔されず、暮らそうよ」
「足手、まといに、なるかもだよ、おれ」
「ならないよ。でも荷物は少ない方が、いいから。…こうしよう」

転がっていたカッターを拾い、恭也の血がこびりついたその刃先を自分の右手首に押し当てた。

「だめ…っ」

その右手が握っていた恭也の左手が、ビクリと跳ねた。
大丈夫。そう言って、押し当てた凶器を引く。

「…っ」
「た、田所く…!」

俺の手首から、勢いよく血飛沫が飛んだ。その赤は恭也の白いシャツや、青白い頬を染め上げる。
思いの外感じない痛みに笑んで、俺はそっとカッターを床に落とした。

「田所くん、だめだよ、早く止血しないと…っ」
「大丈夫。…二人のままだと、嵩張るから、一つになっちゃえば楽じゃん?」
「ひとつ…?」

ぎゅっと指を絡めれば、乾いた恭也の血の跡を俺の生暖かいそれが上書きしていく。
滴る赤が彼の傷口でグチャリと交わった。

「来なよ、恭也」

手首を擦り合わせるように絡めながら、俺は恭也の肩を引き寄せた。
そのまま抱き締める。初めて抱き締めた身体は、冷たくて細くて、頼りないまでに終わりに近付いていた。

「たどころくん」
「…ん?」

あとどれくらい血を混ぜれば、俺たちは一人きりになれるだろう。

「これから、…どこ、行く?」
「さぁ。お前はどこに行きたい?」

耳に痛い静寂の中で、お互いの弱々しい鼓動が暖かく脳に届いた。
目の、前が、霞んで、いく。
サラサラした恭也の髪が頬を掠め、そこからは日溜まりのような匂いがした。

「…どこ、でも…いーよ」
「欲、ないの?」
「あるよ…?田所くん、と…一緒に、居たいなって」
「そう」

重い瞼を開いて、ピタリと寄り添う恭也を抱いたまま身体を倒した。
されるがまま横になった恭也は、ぐったりと頭を俺の二の腕に預けている。そして長い睫毛を震わせて、ゆるり、と閉じた。

「なら、黙って着いて、おいで」

ーーどこかへ逃げよう。

親も兄弟も、友達も教師も知らない場所へ、一人になった二人で。

そこで、話をしよう。

くだらない昔話から、この先の未来まで。
あとは、そうだな。一度お前の好きな食べ物や、苦手な勉強なんかも聞いてみたい。

時間が許す限り、眠気で瞼が落ちきるまで。

「…きょうや」

怖々と重ねた唇は、見た目の通りとてもとても柔らかかった。
その、冷えた場所を啄んで、俺は細い息を吐く。


空気が揺れる。静寂に割り込む足音が聞こえる。
けれど、俺は消えそうな二人分の鼓動が重なった一瞬の音ばかりを、じっと聞いていたのだった。

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