か、と目を見開いた俺とは対照的に、阿笠はうっそり瞳を細めた。

「煩わしいでしょ?親も、妹も…自由になっちゃえば?」

自由。それは、俺が憧れて憧れて、でも見ないようにしていた願望を簡潔に表した二文字だった。

阿笠は近かった顔を離し、ニンマリとした笑みを隠そうともせずに背を向けた。
その小さな背中が談話室の扉を潜り、静かな廊下へ消えていく。

俺は見開いたままの瞳に蓄えられていく水分が途切れぬお陰で、その光景を一瞬たりとも見逃せなかった。頬に、表面張力の限界を迎えたそれが流れ落ちるまでずっと。

「そうか…」

ふ、と笑みが浮かぶ。
阿笠の言葉は簡潔で、端的で、とても俺にとって分かりやすかった。

フラりと立ち上がる。足は自然と、行き先を決めて歩き出した。

「…もう、いいんだ。捨てても」

悪魔の囁きは、魔力を持っている。だから簡単に堕ちた俺の意思は、致し方なかったんだ。

だってずっと欲しがっていた。
もういいよ。楽になれ。そう、背中を押してくれる誰かの言葉を。

+++

ついに電源の落ちた携帯電話だけを持って、俺は寮の外に出た。
よくわからない鳴き声を上げる虫の存在しか感じない敷地内を、ゆっくりと進んでいく。

やがて高等部の敷地から出て暫く行けば、並びに建てられた中等部の寮が見えてくる。
真っ暗な携帯を見ても時間はわからないが、殆どの部屋の窓が暗いからそれなりの時間なんだろう。

「…何かご用ですか?」

寮の正面玄関を堂々潜ると、右手にある寮監室の窓から用務員の男が顔を出した。
俺はすぐニコリと人好きのする笑みを見せ、綺麗に会釈してみせる。

「こんばんは。高等部生徒会副会長の田所麻侍と申します。夜分に突然訪問し、申し訳ありません」
「あぁ、副会長さんですか。あなたも合同体育祭の件で?」

用務員は俺の自己紹介を聞いて不審者でないと判断したのか、朗らかに微笑んでカウンターに肘をつく。

「えぇ、そうなんです」
「大変ですね、こんな時間まで…中等部会長の部屋まで続くエレベーターは既にロック解除してますから、帰りは会計さんと一緒に声かけてください」
「わかりました。ご迷惑おかけ致します」

用務員はヒラリと手を振り、室内に引っ込んでいく。

こんな簡単に部外者を侵入させていいのかよ、と思いつつ、俺はほくそ笑みながら生徒会とは関係ないエレベーターに乗り込んだ。

恭也が来ているのは、わかっていた。
これは俺にしかわからない、あいつと二人だけの想い出の場所だから。

「確かに、須田には無理だな」

未だ高等部の寮内を探し回っている姿を想像するだけで、腹がよじれそうだ。
知っていて教えない阿笠の性格の悪さにも。

暗い階段を昇り、二階の廊下へ躍り出る。
そこは記憶の中と寸分違わず俺を迎え入れた。

そのまま右に曲がり、一番端の寮部屋の前に立つ。
そこはあの頃から変わらず予備の部屋として使われているらしく、ネームプレートは空白のままだった。

ノブに手をかけ押しきれば、そこは易々と口を開ける。
瞬間、噎せ返るような血の匂いが鼻をつき、俺はあまりの懐かしさと愛おしさに、堪らず目尻を濡らした。

一歩、部屋の中へ足を踏み入れる。
月明かりだけが頼りのそこには、あの時と同じように、部屋の隅で項垂れる恭也が、薄く微笑んでいた。

「何、面白い事してんの?志藤恭也」

ーー捨てる決意が固まった瞬間だった。

恭也は右手に錆びたカッターを持ち、左手をあの日より赤く染めながら、俺の顔を見て嬉しそうに笑ったのだ。

「しっ、てるの?俺の、こと」
「知ってる。田所麻侍の、所有物だろ」
「…もう、違うよ」
「いいや。違わないね」

武者震いする膝を動かして、座り込んだ恭也の前へ跪く。
すっかり血の気の失せた細すぎる手首を取れば、恭也は幸せそうに目を閉じた。

「…もっと早く、こーすれば、よかったな」
「なんで?」
「幻覚でもいい…田所くんに、会いたかったんだ」

会えた。話してくれた。名前を呼んでくれた。なんて幸せな夢だろう。

病んだ精神の中で、恭也はひたすら俺を求めていた。
贔屓目に見てオブラートに包んでも「死にかけ」の男は、その間際にも俺という人間を求めていたのだ。

甘い震えが背筋を駆けた。
耐え難い衝動は、赤い血に交わりたいと、切実に訴えている。

「…夢じゃないって言ったら、お前はどうする?」

問いかけに、恭也は薄く瞼を開いて定まらない焦点を俺の顔に集めた。
意味がわからない、そう表情が語る。

「いらないって言ったのが嘘だって言ったら、お前、どうする?」

傷付いた手首に指を回し、止まらない血を押し止めるように力を込めた。
ヌチャ、と濡れた音が響く。今の今まで恭也の体内を巡っていた液体だと思ったら、啜りつきたくなった。

「どう、だろー…うん、うれしいな…」
「そう…なら、拾ってあげようか、恭也」
「…?」

力ない瞬きが、弱い生命の鼓動を伝える。
俺は我慢出来ず、掴んだ手首に唇を押し当てた。

「田所、くん」
「せっかくだ。面白くない話、してあげる」

生暖かい液体が口の回りを汚す。予想通り錆びた味が、舌と喉を染め上げた。

「俺はね恭也。初めから、お前のためだけに学園に来たんだよ。お前の祖父に、家族を人質にされて」

ーー絶望感を漂わせた恭也の顔が、暗く沈んだ。

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