田所1


扉の隙間から覗いていた頼りない姿が、弾かれたように駆け出す。
俺は、その背中を何の感慨もなく見送った。

「…っ恭也!田所、てめー知ってたならなんで…!」

須田はあからさまに青い顔をして、それでも気丈に俺を振り返り睨んだ。

須田は正しい場所に、正しい姿勢で立つ男だ。
後ろめたさに歯噛みして逃げてきた俺は、この男と真逆の所にいる。

だから、俺はこいつが死ぬほど嫌いだ。

「お前にはわかんないだろうよ。…追いかけたいならさっさと行けば?」

ヒラリと手を振ってやれば、須田は憎々しげな視線を俺に寄越し、それ以上何も言わず談話室を出ていった。

ご苦労なこって。
予想以上にはっきり呟いた独り言は、俺しか居ない部屋に無駄によく響いた。

「…まともな生き方しかしてない奴に、わかって堪るか」

俺だって馬鹿じゃない。
須田が俺を咎める理由に間違いがないのも、その常識論も理解している。

けれど、だから、言われる度に俺自身が世間とずれた場所に居ると明確にされたようで、あいつが嫌いだった。
やることなす事正しく、実力もあるあいつにはわからない。

俺の、恭也に対する筆舌し難い感情なんて。

「はー…うっざ」

ドサリとソファに腰を下ろし、ポケットの中でずっと震えていた携帯を取り出す。

今朝学園に戻ってきた辺りからひっきりなしに着信を俺を伝え続ける小型の機械は、頑張りすぎて充電が数パーセントまで減っている。
普通に使っても二日はもつはずのエコで高性能な携帯をそこまで消耗させた相手も相手だが、たまたま切れた時にうまく俺を呼び出せた須田の運も最高に茶番だ。そして、ノコノコ着いてきてやった俺の気まぐれも。

「…はい、何かご用でしょうか」

いつまでも無視している訳にはいかないと、俺はしぶしぶ通話ボタンを押した。
途端、耳に怒鳴り声が響く。
どうやら俺が勝手に学園に戻った事と、呼び戻されている間に振られた今後の話を承諾しないままな事にご立腹なようだ。

「申し訳ありません義郎さん。学内のものから、恭也さんが熱を出したと耳にしましたので…えぇ、それで」

適当な俺の嘘に、電話の相手はそれなら仕方ない、と引き下がる。
相も変わらず孫馬鹿なじじいだ。弱味を握った家族の息子を、血の繋がらない自分の孫の監視役にと付けるくらいに。

ーー志藤義郎とは、恭也の祖父だ。
俺は、恭也の動向を彼に伝え、平穏な暮らしをさせる為だけに監視し、学園生活をフォローする名目でここにいる。

恭也は何も知らないが、須田はどうにかして調べたというような事を言っていた。
だからって、俺と恭也の関係が変わる訳ではないけれど。

「いえ、その話に関しましては…もう少しだけ、お時間をいただけませんか。はい、……承知しております。はい」

恭也の体調が回復次第、もう一度戻ってこいと命令して、じじいは電話を切った。
通話を終えた携帯を見ると、電源が落ちてしまわぬよう自動的に照明が絞られ、ダークグレイの画面に疲れきった自分が映っていた。

ひどい顔だ。俺らしくもない。
いや、俺らしい、なんてものは俺のどこにもない。
ただ命令されるがままに生き、働くだけの駒になってしまったから。

「…みんな、しねよ」

背もたれに体重を預けて力を抜くと、談話室の眩しいライトが眼を焼いた。
仕方なく腕でそこを覆うと、浮かぶのは恭也の顔だ。

好き、とか、そんなわかりやすい感情じゃない。
ましてや、嫌い、などという感情も、いつしか俺の中から消えていた。

初めは大嫌いだった。

銀行員だった父が上司の罪を被り解雇され、路頭に迷う寸前の田所家を拾ったのが義郎だ。
俺はその時、目指していた私立中学の入試をパスし、新たな学校生活に思い馳せるただの小学生だった。

しかし、そんなありきたりな生活は一転した。

人間不振に陥った父は酒に溺れ、母は鬱になった。俺の4つ下の妹は、暴れる父が母を殴ったのを見たショックで口がきけなくなった。
そんな崩壊した家族の前に現れた義郎は、まさに釈迦の如く手を差しのべたのだ。

父には断酒の為の治療と新たな職を、母と妹には腕のいい精神科を、俺には新たな入学先を用意した。その一切の金銭的問題を肩代わりした上で。

けれど、うまい話に飛び付いた後で罠に気付く。

父が再就職したのは所謂ブラック企業で、働けど働けど賃金は安く、最低限の生活をするのが一杯で芳郎への借金は返せない。
母は表向き治療をしているが、医者が本腰をいれていないせいで一向に良くなる兆しはなく。唯一妹は良くなり、今では無邪気な笑顔を見せてくれるようになったが、義郎の実の孫の家庭教師として四六時中監視されている。

そして俺は、家族を人質にこの檻へ放り込まれた。

父が借金苦で首を釣る姿を見たいか?
母がゆるやかに壊れていく笑顔を見たいか?
妹が、また口をきけなくなったらどうする?

義郎はいつもそう言って俺の反論を押し止めた。俺には、指示通り恭也の為だけに生きるしか道はなかったのだ。

ーーそんなペット生活も、もう六年目になる。

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