12

会長、と聞き慣れた声に呼ばれた俺は、野菜の陳列棚から視線を外した。
振り返ると小さな方の後輩が立っている。いや、小さいのに危ない方の後輩、と言うべきか。

「どうした阿笠。お前も自炊派か?」

ここの学園に通う生徒の大半は食堂で食事を済ませる。
だから今俺がいる、コンビニという名のついた大型スーパーの野菜コーナーはいつも人の気配がない。お陰さまでファン?に無闇に声をかけられる事がなくて助かってるが。

阿笠は首を横に振りながら俺の隣に並び、立派な人参を手に笑う。

「僕はポットがないとインスタント麺も作れませんよ」
「中々坊っちゃんなんだな。ヤクザでもそれくらい出来た方がいいぞ?」
「そういう才能はないみたいなので。でもまぁ、使うのは得意ですよ」

じゃあどういう才能があるんだ、とか、その人参は何に使うんだ、とかは聞いてはいけないんだろう。
俺の世話焼きレーダーが一切反応しない後輩は、無邪気な笑顔に邪気だらけの裏側を隠している。

「会長は何作るんですか?」
「雑炊。固形を食わすのは諦めた」
「あぁ…恭也先輩、そこまでいっちゃったんですね」

俺の持つかごの中身を見て、阿笠は面白くなさそうな顔をした。
和野と口喧嘩する時や仕事中の顔とは全く違う。年下なのに子供らしさのない表情は完全に大人びていて、ヤクザの息子って皆こうなのかと好奇心がわいた。

「寝てないんでしょう?」
「微妙なラインだな。寝るのは寝るが、かなり浅い」
「恭也先輩のメンタルって焼き豆腐みたいですね」
「あ?」

意味がわからない俺に、阿笠はふふんと笑って見せる。いつの間にか左手に持っていた長芋は、何に使うんだろう。

「焼き豆腐って焼いてるから少し頑丈でしょ。でも、中身は他の豆腐と同じでやっぱり脆いんですよ」
「あぁ…」
「恭也先輩も、結構頑丈に耐えてるように見えて、中身ぐちゃぐちゃだから。平気そうな顔だけはうまいんですけどね」

言い得て妙だなと、笑うには内容が不謹慎だ。だから俺は頷くだけに留めて、瑞々しいトマトを陳列棚に戻した。

「会長、恭也先輩をどうにか出来るんですか?」
「何が言いたい?」
「あなたみたいなまともな人に、焼き豆腐は荷が重いんじゃないかと最近思うんですよ」

ぐ、と眉間に皺が寄る。しかし阿笠は笑顔を消さず、冗談みたいな事を口にした。

「無理なら無理で、あの人僕に任せてくれません?」
「あ?」
「ここ最近の恭也先輩見て、和野もカリカリしてますし…限界が近いんですよ。みーんな」
「何言ってんのかわかんねーよ。皆って?限界ってなんだ?」
「それは秘密です。あ、ちなみに僕は取って食おうなんて思ってないので安心してください」
「なんも安心できねーよ」

ニコニコしている阿笠は、そうですかね?と小首を傾げてふっと鼻を鳴らす。

「ま、ダメだと思ったら早めに言ってください。今のところ会長が適任だとは思ってますけど、手遅れになっちゃ意味がないので」
「…お前の言ってる意味がよくわかんねーけど、余計なお世話だ。恭也は俺が何とかする。誰にも預けねーから」

言い切って、俺はすぐ彼に背を向けた。早く部屋に帰らなければならない。恭也を一人にしておく時間は、なるべく少ない方がいい。

そんな俺に、背後からのんびりした声がかけられた。

「あんまり根詰めないでくださいよ。会長が最後なんですからね!」

やはり阿笠の言ってる事の大半は、意味がわからなかった。

+++

食材を買って急ぎ足で部屋へ帰った俺を迎えたのは、部屋を出る時と全く同じ体勢の恭也だった。

ソファの足元に座ったまま、テーブルの上に突っ伏してぼんやりと斜め上を見ている。しかし目がトロンとしているから、うとうとしている時に俺が帰ってきて起きたのだろう。

「ただいま。寝てた?」
「わかんない…おかえりー、かいちょ」

ニコリともしない恭也は、無表情に、淡々と間延びした声を出した。

(もうすぐ、二週間になる)

とても機嫌良く俺たちと話していた恭也が、表情を封印した日から随分経った気がする。
一瞬だった。考えるとか言葉を挟むとか、そんな素振りさえ捨てて、恭也は田所に言われるまま笑うのをやめた。

食べる事も寝る事も、大分まともに出来るようになっていたのに逆戻りした。いや、前より酷くなっている。ここ最近は睡眠導入剤すら吐いてしまうから、辛うじて柔らかかった肌も寝不足で少しかさついていた。
そして原因の田所に詰め寄りたくとも、彼はあの日からずっと家の用事という理由で長期欠席していた。

それでも、俺は諦めるなんて考えられなかった。
みすみす田所に恭也を壊される訳にはいかない。なんとしてでも、俺が彼のほの暗い部分を払拭してやる。阿笠に荷が重いと言われたのは、心外でしかなかった。

「飯にしよう。待ってろ」
「ねーかいちょー」

ぼんやりした恭也の頭を撫でてキッチンへ踵を返した俺を、小さな声が引き留めた。

「ん?」

自分から話しかけてくるのは稀だ。だから俺は荷物をその場に置いたまま、ラグに腰を下ろして光のない瞳を覗きこんだ。

「どうした?」

俺の出来うる限りの優しさを込めて微笑んでみる。釣られた恭也が笑ってくれたら、と願うのは何度目かわからない。

しかしやはり恭也は無表情をそのままに、俺の顔をじっと見上げていた。

「かいちょー」
「ん?」
「そんな、頑張んなくってもさー…いーよ?」

彼が何を言いたいのか、漠然とわかっていた。
恭也は、俺が彼の世話を進んでやく事を拒まない。けれど、よしとしている訳でもない。ただ無感情に、流れに身を任せているだけだ。

その状況に言及しようとしたのは、連れ込み始めて数日経った頃が最初で最後だったから、俺はすぐに否定しようとした。

「…恭也、俺は、っ」

何も頑張ってなどいない。
俺が好きでやってる事だ。
それも、ただのボランティアじゃなくて、恭也が好きだからやりたいと思ってる。

そんな事を伝えようと口を開いた時、テーブルに投げ出されていた恭也の手がそっと俺の頬に触れた。
暖かいはずのそれは何故かとても冷たくて、彼の顔色と合わせて考えればそろそろ限界なんだと突きつけられた気がした。

「恭也…?」

彼から俺に触れるのは、彼の部屋で恭也を見つけた、あの朝以来だ。
目覚めてすぐ恭也が居ない事に焦って探しまわった俺は、見つけた事に安堵し、俺の所へ戻るつもりだったと言った恭也の言葉に舞い上がり、撫でてくれとらしくなくねだったのだ。

(あの時は、あんなに柔らかく笑っていたのに)

田所が、憎い。
それだけに占拠されそうな心を引き戻したのは、恭也の悲しそうな声だった。

「かいちょーは、こんなことしなくて、いーんだよ」
「は…?」
「出来損ないにそんな、頑張ってさ…時間もったいないよ…。かいちょーみたいな優しい人はさーもっと、まともな人のために頑張るべきだよ」

すり、と指先が頬から下りて、顎を辿って落ちた。

「かわいそーだよ。俺なんかに一生懸命なったって、いい事ひとつもないのに」

ーー悲しんでるんじゃない。
彼は、俺を、憐れんでいた。

「…バカな事、言うなよ」
「それはかいちょーの事、だと思うよー?」
「いや、ちげーな。お前だよ。…なんでそんなに、田所に従順なんだ」

落ちた恭也の手を取り、俺の体温が少しでも移ればいいと握りしめた。

「約束したって、神様だって言ったよな。なぁ、どうしてだ?何があった?俺を可哀想だと思うなら、話してくれてもいいだろ」

こんな言い回しは卑怯だ。わかっている。
しかし恭也が何を考え、何故こうなったのか知る事ができるなら、己がどう思われても構わないと思った。

「元よりなくなるはずの命、ってなんだ?田所にそこまで心酔する理由は、なんなんだ」
「どーしてそんな事が気になるの…?」
「それは、また今度教えてやる。今のお前は…きっと理解出来ないだろうから」

好きだから。
簡単なその原動力を告げても、田所に操られた恭也の心の中まではきっと届かないだろう。

握りしめた手をそのままに、俺はじっと恭也の目を見つめていた。

「…そう。聞いても面白くないのに。かいちょー変な人ー」

淡々と言った恭也は、少し考えるように目を伏せて、血色の悪い唇を開いた。

「…みんな、俺を捨てるんだー」
「…?」
「親もね、親友も…俺の事、いらないんだって。何のために生きてるのか、わかんないんだ…」

恭也は相変わらず無表情なまま、声だけは途方に暮れていた。
視覚と聴覚のバランスが取れなくなりそうだ。

「親って?」
「俺里子なんだよねー。でもさ、赤ちゃん出来たから…俺いらなくなっちゃった」
「親友、って?」
「椎名。…あー…かいちょは高等部からここに来たんだっけ?じゃー知らないねー。椎名が転校したのは中等部一年の夏休みだから」
「そいつが、お前に何したんだ」
「…好き、なんだって。俺の事」
「…?」

好きと言われる事が、どうして恭也を捨てる事に繋がるんだろう。
中等部の頃の事を全く知らない俺は、その椎名という人物も恭也の事もわからない。

「俺、一人ぼっちだからこの学園に逃げてきてさー、椎名と出会って、親友みたいになって、これからもずっと一緒にいよーねって、言ってたんだ」
「それで?」
「でも、椎名は違かったんだって」

首を傾げる俺を見上げ、恭也は懐かしいとでも言いたげに目を細めてみせた。表情とは言い難いそれは、妙に痛々しい。

「好きって言って、最初から友達だと思ってなかったって、好きだから傍に置いてたんだって…もうすぐ転校するから、俺の顔見なくて済むって」
「恭也…」
「ふふ、俺を見てたら、頭おかしくなりそーなんだって。…拒んだ俺は、椎名にとって邪魔な存在だったんだよ」

親友に捨てられたと言った意味を理解して、俺は知らず顔を歪めていた。
男同士で恋愛する事がまかり通るこの学園では、よくある事だ。
片方は恋情を、片方は友情を向けあって、いつしか歪みが生じ関係を壊していく。男女のそれよりずっと、二人の感じる裏切りは大きい。

恭也の場合もそうだ。
恭也は親友だと、信頼しきっていた相手に想いを告げられて裏切りに絶望した。
そして椎名と呼ばれた人物も恐らく、恭也の向ける友情を感じながらも、己の抱く恋情を押さえきる事が出来ず苦しさに喘いでいた。

両親と恭也の間にどんな問題があったのか、詳しく理解はできないが、少なくとも周囲の生徒を見て時おり仲裁に入っていた俺には、椎名との事は多少理解出来た。

「田所とは…その頃からか?」
「…ちょっとだけちがう。椎名との事があったあと、俺、行くとこなくて…もうね、死のうと思って」
「は…?」
「いいやって思ったから、空き部屋でさ…そしたらね、ふくかいちょーが急に入ってきて」

自殺を仄めかす言葉に詰め寄りたくなるのを、俺はなんとか押し止めた。話している恭也を遮れば、話す事をやめてしまうかもしれないと思ったからだ。

「一人がヤなら、俺の傍に置いてあげようかって言ったんだ」
「…何様だあいつ」
「ふふー。でもね、約束を守るならって条件をつけてくれたんだよ。条件があったら、安心だよね。いい子にしてれば、もう一人ぼっちにならなくってもいいんだよ。あとね、血もくれた」
「血?」
「そー。出過ぎてちょっとやばかったみたいで、俺を病院に運んで、ふくかいちょーが血をくれたんだって。すごいよねー、見事に血の相性が良かったんだってー」

俺は黙ったまま、恭也の言った言葉の意味を考えていた。

一人になるのが怖い。
これは恐らく、両親とのトラブルが原因だろう。

条件があれば安心。
つまり、恭也は他人の言葉全てを信用していないという事だ。人間不審のくせに寂しがり屋。とんでもなく矛盾しているが故に、すがる相手が田所のような身勝手野郎でも、再び裏切られる事を恐れて従順な態度を取る。

だから、俺や後輩達がどれだけ言葉を募らせようと、田所の言い出した約束以上に響く事はない。

(ほら。やっぱり、好きだって言っても伝わらない)

勢いで言ってしまわなかった自分に安堵しつつ、それでも俺は、田所のおかげで恭也の命が繋がった事実にだけは感謝していた。

「どんな約束をしたんだ」
「んっとねー、泣かない、怒らない、頼らない、縛らない、それから…笑ってること。この間笑うなって言われちゃったから、五つ目のはちょっと違うけどねー」
「お前、それ…」

ーー俺の言う事なんでも聞くんだ。しかも重い事言わないし、何してもニコニコしてるし、完璧だろ?ーー

恭也の事を、便利な小物に例えた田所の顔が脳裏を過る。

(完璧って、そういう意味かよ…っ)

その五つの約束自体が、恭也を一人ぼっちにしていると、彼は気付いていない。まるで親鳥を勘違いしたヒナのように、田所の言葉を刷り込まれ、盲目的に信じている。

泣かず、怒らず、一人で何でも出来て、寛容。
そしていつもニコニコしているなんて、胡散臭すぎて、誰も懐には入れない。入れなければ、恭也はずっと一人ぼっちだ。

この約束自体に田所の悪意を感じた俺は、力を込めてしまいそうで恭也の手を離した。
恭也は暖まった指先を軽く握り、目を閉じる。

「ふくかいちょーは、俺みたいな出来損ないは嫌いじゃないんだって。お人形みたいって。だからね、ずっと捨てられなくて済むように、がんばろーって、」
「恭也」
「ん…?」

唐突に抱き締めると、恭也は不思議そうに短く声を上げた。
首もとに埋まる唇から吐く息が、暖かくそこを湿らせていく。鼻先を寄せた髪からは、俺と同じシャンプーの香りがした。

「恭也…」

あぁ、もう、なんて言えばいい。
言葉が役に立たないなら、好きが響かないなら、俺は恭也にどうやってこの想いを伝えればいい。

どうすれば、田所との約束は色を失うのだろう?

「かいちょー?」

四面楚歌になって動けない俺の背中を、恭也はまた冷たくなった手のひらでポンポンと叩く。
表情がなくとも、言葉がなくとも、それは俺を慰めているとわかる動きだった。

ハッとする。練り込まれた言葉も、作った表情も、恭也にはないのに。何故俺は彼の手のひらに、慰めを感じたんだろう。

「そうか。そうだよな」
「んー…?」
「考えるだけ無駄だよな」
「かいちょー?」

ーー言って意味がないなら、俺は動こう。
俺の向ける好きが心の中に届かないなら、恭也の心の中に好きを芽吹かせてしまえばいい。

「覚悟しとけ」
「なにを…?」

戸惑う雰囲気を纏う恭也をぎゅっと抱き締め、そっと離す。
無表情な顔。目には光がなく、微睡んでいる。
しかし声には表情があるし、心にある感情までもが死んだ訳じゃないと、俺は会話をして知った。

「俺を、そんじょそこらの意気地無しと一緒にすんなよ」
「…?」
「見とけ。その内、俺の事しか考えられなくなる」

ニヤリと笑みが浮かぶ。
俺は現金にも晴れた視界にいる男に顔を近づけ、額に唇を押し付けた。

「あ、え、かいちょ…」
「ちなみに俺の名前、会長じゃなくて薫だから」
「…っ」

その時ぶわっと赤くなった頬と見開いた目は、酷く人間らしかった。

(まだ大丈夫。抱き締めた身体には、暖かな血が通っていたのだから)

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