あのとき諒太は「恋人が遠いとこに住むのは寂しい」と言った。だったら今は何故か、考えて浮かぶ理由は彼らしい思いやりだ。

「……や、母さんなら心配いらねえよ。おじさんもいるし、俺もたまに顔出すから」
「違うよ、俺が困るんだ、大ちゃんが近くにいないと」
「な、……」

 数年前まで屈強なヤンキーと殴り合うのは平気だったのに、今は「なんで」と訊ねる度胸すらない。どんな顔でいればいいかわからず、いやに真剣な視線から逃げる。

「何言ってんだ。別にいつでも会えるだろ」

 だがベッドから立ち上がりかけた大雅の肘を、男は掴んで引き留めた。

「大ちゃんお願い、五分以内にして」
「んな近いとこ、ねえって」
「きっとあるよ。じゃないと出て行かせない」
「はあ? 諒太、いい加減に……、っ」

 腕を引かれ、背中から布団に倒れこむ。唖然とする大雅は、男二人分の体重で軋むベッドの音を聞いてフリーズした。

「俺から離れて行かないで。頷いてよ」

 男の重みで縫いつけられた手首が僅かに痛んだが、押し倒されている現状に比べたら些細なことだ。早く離れないと、早鐘を打つ情けない鼓動の音が知られてしまう。焦り、自由なほうの手で面前の肩を押す。

「馬鹿、重いっつーの……退けよ」
「うんって言ってくれたら退くから」
「わかった、わかったって。五分以内な」

 意外に逞しい二の腕を軽く叩き、小刻みに何度も頷く。そうしてやっと、諒太は大雅の上から動いてベッドを降りた。
 脅迫まがいに迫っておいて、望んだ返答を得られた諒太はすっかり無邪気に笑っている。

「よかった。ごめんね? 手首痛い?」
「別に……」

 心底安堵する大雅の顔は普段通り平然としているが、薄い皮膚の下では恋心が全速力で駆け巡り、叫び出したいほどだった。起き上がって片膝を抱き、無意味に携帯を触る。

「じゃあ……五分圏内で探しとく」
「物件の目星ついたら教えてよ。一緒に見に行きたいから」
「おう」

 あっさりと諒太が部屋を出ていき、再び一人になった。大雅は不毛なカモフラージュをやめ、顔からベッドに突っ伏す。男の重みと手首を掴む熱さを思い出すだけで頭が茹だり、乱されることを知った身体が疼いた。

「くそ……意味わかんねえ」

 くぐもった声がシーツに溶ける。
 彼の言動を都合よく解釈してしまいそうな自分が恐ろしく、俯せたまま頭を抱えた。

「あいつ、なんのつもりで……」
「うまくいった?」
「っ!?」

 誰もいないはずなのに、突然声をかけられて飛び起きる。するとモスグレーのセンターラグに座る、占い師風の女と目が合った。

「あ、お前……!」
「やっほー。どう? 願いは叶った?」

 軽い調子の問いに、頷いていいものか迷う。原因を取り除けば大団円だと信じていたが、どうも釈然としないことばかりだ。
 無言の大雅を見ていた女は、怪訝そうに身を乗り出してベッドへ腕を置く。

「なあに、もしかして告白しちゃった?」
「いや……してねえ、けど」
「なら喜べばいいじゃん」
「なんか違えんだよ。あいつ……変なんだ。期待させるようなことばっかして……」
「うーん」

 細い人差し指を顎に当てて唸る女は数秒後、その手でベッドをポンと叩いた。

「じゃあ、あなたが彼女を作ればいいんじゃない?」
「は? ……っ」

 項垂れていた顔を上げた瞬間、女のいやに冷たい指先が大雅の頬に触れ――視界がぐるりと回った。


 ガヤガヤと賑やかな声に誘われ、不明瞭な意識が晴れていく。
 最初に認識したのは、右手に持ったグラスを満たす炭酸ジュース。次は居酒屋の宴会席らしき場所と、目前のテーブルに所狭しと並べられた料理の数々だった。

「は……?」
 何が起きた。ここはどこだ。今はいつだ。
 教室で目覚めたときのように、混乱しつつ周囲を見回す。だが前回の経験が生きている分、すぐに状況を理解できた。
 長テーブルを二卓並べた広い座敷には、見知った面々が酒を片手に歓談している。彼らは大雅の同僚と上司だ。

「兼松、飲んでるか?」

 現状把握に意識を費やしていると、上機嫌な上司がビールを片手にやってくる。
 咄嗟に笑みを浮かべた大雅は、グラスを軽く持ち上げた。

「すげえ飲んでるっすよ。俺ザルなんで」
「おーおー、その台詞が二十歳になっても言えるかどうか楽しみだな」
「アルハラっすか」
「愛のある可愛がりってやつよ」

 気のいい上司はどっかりと隣に腰を下ろし、肩に腕を回してくる。重鎮と若手の橋渡し的存在の彼は、周囲の社員と盛り上がり始めた。
 傍らで携帯を開いて日時を確認すると、就職した年の十月だった。小さな工場は社員数が少なく、社長の計らいで度々宴会が開かれる。今は、会に参加した夜のいずれかだろう。
 しかしあの女は何故、諒太と全く関係のない宴会の最中に大雅を送りこんだのか。さっぱり意図が理解できず首を傾げると、上司の手が頭に乗った。

「そういや兼松、お前彼女いんのか」
「いないっすけど」
「そうか! おーい、兼松フリーだって!」

 薄れていた記憶が息を吹き返し、苦笑した。
 この後、妙な気を回した上司に囃し立てられ、同期入社の女性事務員と二人で帰らされることになる。表向きは「未成年だから」という理由だが、お節介で茶目っ気のある思惑は察していた。
 案の定、一時間後には事務員を駅まで送って行くため店を出た。


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