会社からの近さで重宝されている居酒屋から駅までは徒歩二十分ほどだが、自宅がある住宅街とは微妙に方向が違う。その上、大して事務員とは親しくもなく、代わり映えしない景色の線路沿いを歩くのは酷く退屈だった。

「寒くなってきたね。お昼は暖かいのに」
「まあ。あんた薄着すぎねえ?」
「夕方に帰れると思ってたから。まさか急に宴会が決まるなんて考えてなくて」

 日中の気候に合わせて服を選んだらしい彼女は、薄手のカーディガンに防寒を委ねている。袖を伸ばして指先を隠し、バッグを抱く姿が寒々しく、大雅は自分の着ているパーカーを脱いで肩にかけてやった。

「着とけ。ないよりはマシだろ」
「え、っや、でも兼松君が寒いし……」
「平気。ちょっと汗臭いかもしんねえけど」
「そんな、全然……すごく温かい。ありがと」
「おう」

 素直に袖を通す様子を見てホッとする。出会った当初の小さくて細い諒太を思い出すから、華奢な女性が寒さに震える様は可哀想で見ていられない。愛らしくか弱い天使に何度上着を献上したか、思い返すと笑ってしまう。
 薄ぼんやりと過去に思いを馳せていると、駅が見えた頃に彼女が歩みを止めた。

「あの……彼女いないって、本当?」

 過去の大雅は、ここで「恋人がいる」と先手を打った。醸し出される空気が、何を告げるつもりか語っているからだ。
 だが、今は違う。

「……本当だけど」

 頷き返すと、事務員は寒さだけではない赤らみを頬に浮かばせた。

「なら私が彼女になっちゃ、駄目かな」

 緊張しきっている彼女は、貸したパーカーの裾を固く握り締めている。いじらしい仕草を眺め、大雅は怪しい女の言葉を理解した。
 彼女を作って、どうあっても告白「できない状況」に自分を置いてしまえばいい。期待と勘違いに対抗する理性のリミッターは多いほうがいい。つまりは、そういうことだ。

「はは……っ、なるほどな」
「兼松君……?」

 込み上げるままに大雅は笑う。何も楽しくはないが、下劣な自分の思考回路が救えなさすぎて、笑うことしかできなかった。
 彼女には今から、とても不誠実なことをする。好きになれやしないのに頷いて、諒太を守るための足枷になってもらうのだ。

「ありがとな」

 ――いいよ、よろしく。
 そう告げようとしたときだった。

「大ちゃん」

 いつもは穏やかで聞き心地のいい低音が、鋭く夜の空気を震わせる。
 不貞行為を暴かれたような焦りで肩が跳ね、大雅は勢いよく声のしたほうへ顔を向けた。

「なん……諒太……?」

 駅を背にしている諒太は、スウェット姿で手にコンビニ袋を提げている。嬉しそうに近づいてくる足音は、駆け出す大雅の鼓動と同じ速度だった。

「偶然だね。こんなとこで会うなんて」
「ああ……ビックリした。何してんだよ」
「肉まん求めてさ迷ってたんだ。大ちゃんの分も買ったから、帰りながら一緒に食べよ」

 にこやかに袋を軽く持ち上げた諒太は、視線を大雅の隣へ流す。

「こんばんは。ええと、君は?」
「あ……と、同僚、です」
「そっか。なんか話してた? ごめんね……邪魔しちゃったかな」

 含みのある言い方が恥ずかしかったのか、彼女は胸の前で慌てたように手を振る。

「べ、別にそんな……! あの、もう駅も近いし一人で大丈夫です、それじゃあ……」
「え。いや待てって」
「さっきのは……忘れてください、おやすみなさい」

 走り去る同僚を、大雅は呆然と見送る。内心は彼女を利用せずにすんだ安堵と、チャンスを逃した落胆で雑然としていた。
 すると諒太は静かに隣へ並び、背を丸めて申し訳なさそうに大雅の顔を覗きこむ。

「大ちゃん怒ってる?」
「いや……怒ってねえよ。つーかお前なんなの。昔から俺が告られてると遭遇するよな」
「あ、やっぱり告白されてたんだ。わかるなあ、こんな肌寒い日に上着貸してもらったら、いけると思っちゃうよね。付き合うの?」
「今回も返事する前に行っちまったわ」

 大雅自身も学生時代は告白の呼び出しを受けたことがあるものの、まともに返事をした例がない。
 大雅へ想いを寄せる女子達は控えめな性格の子ばかりで、百発百中の遭遇率を誇る間の悪い諒太に驚いて去っていくし、後日返事をしようにも、余程恥ずかしいのか口を揃えて「忘れて」と言うからだ。
 学校内という狭いフィールドならまだしも、夜の線路沿いで出くわすなんて笑うしかない。

「お前、わざと邪魔してんじゃねえの」
「そうだよって言ったら今度こそ怒る?」
「は……?」

 くだらない冗談で終わるはずの話題が躓いた。現実味のなさを馬鹿にしたいのに、あながち冗談に聞こえず言葉が続かない。
 すると諒太は微笑み、上着を失って夜風で冷えた大雅の首筋を撫でた。

「冗談だよ? でも、軽い気持ちで頷いちゃ駄目。誰も幸せになれないから」

 姑息な手段として彼女を利用しようとした心の中を、細部に至るまで見透かされているような気がした。明滅する外灯の不安定な明かりに照らされた男の目は、表情と不釣合いで一切笑っていない。その視線はゾクリとするほど冷ややかで、ふざける余地もなく痛烈に大雅へ注がれていた。

「好きな人としか付き合っちゃ駄目。ね?」

 可愛らしく小首を傾げるくせに、まるで脅しだ。諒太のことならなんでもわかると思っていた大雅は、己の過信を思い知る。これまで彼の手を引いて優越感に浸り、守っている気になっていた自分が情けなかった。

「言われ……なくても、わかってるっての」

 気圧されて首を縦に動かすと、嬉しそうな男が大雅の左手を取って歩き出す。

「ふふ。じゃあ帰ろっか、大ちゃん」
「おう……」

 繋いだ手にコンビニ袋を持ち変えた諒太は、肉まんを取り出して包装を剥がし、大雅の口元へ差し出す。大きな一口でかぶりつくと、二口目を諒太が幸せそうに頬張った。

「ぬるいけど、大ちゃんと食べると美味しい」
「そんなわけあるか」
「本当だよ。はい、あーん」

 機嫌よく近づけられた肉まんへ、再び大口を開けて食いつく。口内が生地と具でいっぱいになった大雅を見て、諒太は「それじゃ喋れないね」と笑ったが、それでよかった。
 下手に自由を許されてしまったら、今にも「ならお前が付き合えよ」と言ってしまいそうだったから。


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