だが、今日からは違う。

「行ってこいよ」

 背中に添えた手で五度目の後押しをしてやると、勢いで女子生徒へ一歩近づいた諒太は傷ついたように眉を下げた。

「大ちゃん……」

 わかってるくせに、どうして。
 そう言われている気がしたけれど、これは距離を置くための第一歩だ。散々甘やかしてきた自覚のある大雅は、エゴイスティックな己に深く失望していた。

「言えなかった後悔って、ずっと残んだぞ」
「……え?」
「言わせてやれ。そんで、ちゃんと真剣に考えてやれ。な?」

 心のどこかで冷静な自分が、「白々しいぞ」と嘲笑っている。幾人もの恋心を諒太へ届く前に踏みにじっておいて、諭す大雅はさながら詐欺師のようだ。
 諒太は暫く大雅をじっと見つめていたものの、やがて頷き、女子生徒と共に賑やかな校庭を後にする。見送ることの違和感と、誤魔化せない嫉妬に突き動かされ、大雅は携帯をポケットに仕舞った。

「悪い、俺もう帰るわ」
「マジで? 諒太と一緒に帰るんじゃないのかよ。あいつ泣くぞ」

 友人の心配を根性だけで笑い飛ばし、ヒラリと手を振る。

「泣くかよ、彼女できたとき俺がいたらムード台無しだろ。写真は後で送っとくわ」

 数人分まとめて地面へ置いていたカバンの中から、自分のものだけを手に校舎を出る。
 ほぼ週五で往復していた帰路を初めて歩くような感覚に陥るのは、隣にいて当たり前だった存在がいないからだと自覚していた。

「ミッション完了、てな……」

 思い返せばまじまじと見たことのなかった景色を、暇潰しも兼ねて眺める。しつこく喪失感を訴える心を無視するため、今後に思いを馳せた。
 願いを叶えたのだから、肉屋の前に戻れるのだろうか。むしろこのまま、一年半を重複して生きるのだろうか。
 もし後者であるならば、楽しみにしていた漫画の新刊を読めるのも随分先になってしまう。それは少し困る、と苦笑する大雅は、背後から唐突に肩を強く掴んで引かれた。

「……ッ!?」

 されるがまま身体を反転させられ、咄嗟に拳を振り上げる。しかし犯人の姿を認識して素っ頓狂な声を出し、腕を下ろした。

「ど……どうした……?」

 相当走ったのか、諒太が苦しそうに膝へ手をついた。上下する肩を撫でると、上気して歪んだ甘いマスクが大雅を見上げる。

「た、いちゃん、が……っいない、から」
「……それだけ? バッカだなお前、彼女と帰るだろうと思って気い利かせたのに」

 喜んではいけないのに、諒太が誰も選ばなかったことにニヤけてしまいそうだ。どうにか呆れ顔を作る大雅は、少し乱れた諒太の黒髪を撫でつけてやる。
 すると身体を起こした男の表情が、みるみる内に削げ落ちた。驚いて引っこめた手を掴む諒太の目は据わっており、まるで別人のようだ。

「……そっか、そっちに転んじゃったんだ」
「諒太? なんだよ、怖え顔して……」

 ふわりと下方を漂った視線が、大雅の顔へ戻ってくる。諒太はそれからボソリと呟いた。

「言えなかった後悔はずっと残るって、大ちゃん言ったよね」

 何故か無意識に止まっていた呼吸が、吸い方も吐き方も忘れたように上手にできない。瞬きも返事もできないでいると、彼の眦は心なしか吊り上がって不満を滲ませた。

「一緒に帰るって約束したよ。先に帰っちゃ駄目だよ。俺は大ちゃんと一緒がいいのに、なんで俺が女の子と帰ると思うの?」
「いや、それは……」
「俺との約束、破らないでよ」

 十年傍にいて、怒る諒太を見たのも叱られたのも初めてだった。頭が真っ白になり、何も考えられない。
 すると諒太は打って変わって視線を和らげ、見慣れた柔らかい笑みを浮かべた。

「はい大ちゃん。ごめんねは?」
「え、あ……ごめん」
「うんいいよ。仲直りだね」

 端から溶けていくのでは、と不安になるほど、男の目尻が甘ったるい笑い皺を作る。しかし彼らしくない押しの強さに圧倒される大雅は、和む余裕もなく何度も頷いた。
 諒太は上機嫌に大雅の左手を掴んで歩き出す。繋がれた体温に驚き、肩がビクついた。

「お、おい諒太……これはねえって」
「昔はいつも繋いでたよ」
「子どもじゃねえんだぞ。人目とか……」
「それって大事?」

 心底不思議でならない、と言いたげに大雅を一瞥した諒太は、繋いだ手に力をこめた。

「そんなの気にしてたら、また大ちゃんが一人で帰っちゃうよ。だから捕まえとくんだ」

 与えられる餌だけで満足していた雛鳥が、目覚ましい成長を経て巣を飛び立つような力強さを感じる。淀みなく自己主張する横顔はさっぱりとしていて、何かを吹っ切ったようにも見えた。

「どうしたんだよお前……なんかあった?」
「ううん、何もないよ。ただ、大ちゃんの言う通りだなあって思ったから、ちゃんと言葉にしてみただけ。こんな俺は変? 嫌?」

 甘えるように首を傾げる仕草ですら、普段より格好よく見える。気弱で優しい性格が高い顔面偏差値の嫌味を打ち消していたが、強引さと臆せぬ物言いをプラスした諒太のイケメン度は羨望を抱くことすら烏滸がましい。
 比例して、胸を高鳴らせる己の乙女度まで底上げされたような気がした。

「別に、変じゃねえし、嫌でもねえよ。お前遠慮ばっかするから、いいんじゃねえの」
「へへ、うん。ありがと、大好き」

 気の抜ける笑みで言った諒太は、鼻歌混じりに繋いだ手を揺らす。無邪気で含みのない「大好き」が壊したのは、手を握り返そうとした大雅の邪心だった。

「はいはい、俺もお前が大好きですよ」
「心がこもってない……」
「馬鹿、こもってたらエグいだろうが」

 ぶすくれる諒太を笑い飛ばし、ポケットに手を入れて気怠そうに足を動かす。悪乗りした諒太が冗談で手を引いているように、あるいはやる気のない大雅を仕方なく連れているように、周囲の印象を操作するのは得意だ。
 いつも斜め後ろを歩いていた頼りない諒太は、この先どんどん一人で好きな場所へ歩んで行くだろう。彼を導けない左手には、なんの価値もない。だから今だけは振り解かないでいたかった。


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