首の後ろへ何かが触れる。くすぐったい感触に身じろぐと、懐かしい木の匂いがした。

「大ちゃん……大ちゃん、起きて」

 肩を揺すられる心地いい感覚と、聞き慣れた声が子守歌のように愛称を呼ぶ。瞼を開き、伏せていた身体を起こすと欠伸が出た。

「あー……俺、寝てたか……」
「うん、気持ちよさそうだった」
「おう……あ?」

 目を擦っていた大雅は違和感を覚え、目前に立っている諒太を見上げる。

「お前、なんて格好してんだ」
「うん?」

 大雅を見下ろす諒太は、紺色のブレザーに身を包んでいる。それは男女共にデザインが人気の、三年間で着飽きた高校の制服だった。

「……コスプレか?」
「大ちゃんも同じの着てるよ?」

 丸っこく愛らしい二重の瞳が、キョトンと大雅の首から下へ向けられる。
釣られて俯いた大雅は、自身の服装も制服であることに驚愕した。

「……はっ!? っえ? なんだこれ!」
「変な大ちゃん。もう皆、集合場所に行っちゃったよ。俺達も行こ?」
「は……? 集合って」
「今から卒業式でしょ。ふふ、寝惚けてる」

 ポカンと口を開ける大雅の頭を、諒太は朗らかに撫でている。決して急かすことのない手の平には、嫌というほど覚えがあった。

「ど、う……なってんだ……?」

 意味がわからず首を巡らせる。大雅が座っているのは木製の机と椅子で、今いる場所は高校の教室だった。左胸には花のブローチがつけられており、黒板には妙にクオリティの高い桜の絵。その隅で、卒業式後のスケジュールが窮屈そうに箇条書きされていた。

「学校……? 卒業式……?」

 ふと脳裏に、占い師のような恰好の女が過ぎる。それを皮切りに次々と蘇る出来事が、摩訶不思議な現状の理解に一役買ってくれた。
 大雅の願いは、諒太に想いを告げず幼馴染として生きること。そして後先考えず告白をしたのはこの日――卒業式後のことだ。

「マジで、やり直せる……?」
「何をやり直すの?」

 諒太はいつの間にか背後へ移動し、大雅の髪を結び直している。口ずさんでいるのは卒業式の合唱曲で、懐かしさと共に実感した。
 本当にやり直せる。ならば今度は彼を、大雅の手から守ってやれる。
与えられたチャンスを噛み締める大雅は、困惑より安堵が勝っていた。

「……行くか。卒業式」
「うん」

 頷いた諒太を連れ、教室を後にする。
 履き潰した上履きが廊下を叩く間抜けな音を聞きながら、大雅は忘れもしない今日のことを記憶から引っ張り出した。
 式後、絶え間なく諒太を呼び出す女子生徒にヤキモキした大雅は、彼を連れ出して人気のない教室で想いを告げる。誤った未来は、その瞬間から始まった。
 やり直せるなら、絶対に好きだと言わない。そうすれば諒太と大雅が付き合い始めることはない。全てを知る大雅なら、正しい未来を作ることができるはずだ。
 秘めた決意には、少しの躊躇いもなかった。


 式後、一度目より寂寥感を覚える大雅は、カメラを起動させた携帯片手にしみじみと校庭を眺めていた。
 チラホラと帰路につく生徒はいるものの、卒業生の大半は最後の思い出作りに勤しんでいる。男泣きしている担任教師に釣られて一人が泣き始めると、続々と女子生徒が陥落していく様はまさに青春だった。

「おーい、ボケっとしてないで撮れよ!」
「わあってるって」
「諒太も来いよー」

 真面目な顔でおかしなポーズをとる友人が、大雅に引っついている諒太を呼ぶ。肩越しに携帯画面を覗きこむ男へ顔を向けると、無垢な瞳が何かを訴えるように視線を注いできた。
 言葉にされずとも、「大ちゃんと一緒なら」という幻聴が聞こえる。写真の類があまり好きではないのを知っている大雅は、暇を持て余して人間ピラミッドを組み始めた友人へ代わりに応えた。

「お前らと撮らせたら諒太がアホになるわ」
「出たよ、過保護大雅の鉄壁ガード!」
「うっせ。ほら撮るぞ」

 やがて崩れて潰れるピラミッドを連写していると、クスクスと笑う吐息が耳に触れた。

「最後だからって制服汚しすぎだよね」

 背中に張りついて画面を見る諒太は、大雅の肩に顎を置いて腹に手をまわしている。
 その様子を近くにいた別の友人が「相変わらずベッタリしてんな」と笑った瞬間、大雅はギクリとした。
 この距離感は二人にとって当たり前だが、言われてみれば不自然極まりない。告白しないことはもちろん、諒太の今後を思えば一般的な幼馴染の接し方を念頭におく必要がある。

「馬鹿、近えよ」
「……え?」
「ほら、……写真撮りにくいし」

 遠ざける言葉は使い慣れないせいでしどろもどろだ。内心は右往左往しているのを隠し、小さな液晶に集中する。
 そのとき、控えめな声が諒太を呼んだ。

「あの……藤野君、ちょっといい……?」

 諒太と離れて振り返ると、そこには頬を染めた女子生徒がいる。どんな用かは訊くまでもなく、大雅は心の中で「もう五人目か」と呟いた。
 わかりやすく困惑している諒太は、助けを求めて大雅に視線を送ってくる。

「え、と……」

 今まで大雅は、この視線に応え続けてきた。
 真実と嘘をほどよく混ぜ、諒太が悪い印象を持たれないよう、或いは大雅の身勝手に映るよう調整して女子生徒を遠ざけてきたのだ。それは彼の気持ちを尊重した行為でもあったし、大雅の嫉妬を反映させた牽制でもあった。


前日譚トップへ