あてもなく夜の住宅街をふらつき、やがて地元のアーケード商店街に辿りつく。
 近頃はめっきり通らなくなったが、小学生の頃はよく早智子の言いつけで諒太とお使いに行かされた場所だ。寂れていても、昼間の活気ある様子が思い出される。
尽きることのない懐かしい記憶には、必ず諒太がいる。大雅の生活の中心は諒太だったから、他所見もせず一途に育ててきた恋は寄り道の概念すら知らないままだ。
 この先、中心から諒太のいなくなった大雅はどうなってしまうだろう。不気味なほどの心細さで、幸福の絶頂だった恋人としての一年半を想起する。
すると誰かに話しかけられた気がして足を止めた。顔を上げると、今度ははっきり女の声が耳に届く。

「いいの持ってるね」

 コロッケがべらぼうに美味い肉屋の前で、紫のベールで頭をすっぽりと覆った女が椅子に座っている。口と鼻は総レースのマスクで隠され、唯一露出しているのは目元だけ。ベールと同色のドレスに身を包んでいる姿は、一見して絵に描いたような占い師だった。

「あは、驚いてる?」

 彼女は目を細め、怪しげな幾何学模様の布をかけたテーブルに肘をつく。その背後に見える閉まったシャッターとのコントラストは、奇妙以外の何ものでもなかった。
 不審な人物に関わるなと口を酸っぱくして藤野親子に言い聞かせている大雅は、瞬時に何も見ていないフリを決めこむ。しかし何喰わぬ顔で歩き始めると、女は慌てた様子もなく大雅を呼び止めた。

「願い、叶えてあげようか」

 無意識に立ち止まってしまい、己の正直すぎる反応を呪う。しかし再度無視をする気にもなれず、女を振り返った。

「で? 俺は法外な値段の壺とか数珠を買う羽目になんのか」
「馬鹿ね、ああいうのは金持ちのジジイに売りつけるもんなの。あたしが欲しいのはお金じゃなくて、それ」

 非道な台詞を吐いた女は、声を弾ませて指を差してくる。切り揃えられた薄ピンクの爪は、ジーンズの左ポケット付近を向いていた。

「……財布なら持ってねえぞ」
「違うってば。それ。願いを叶える石」

 大雅は思わず眉間に皺を寄せた。
 彼女が言ったのは、付き合い始めたばかりの頃に諒太と遊園地で買った、揃いの携帯ストラップのことだ。とはいえポケットの中に仕舞われている今、女から見えるはずがない。
 不審な上に、只者じゃない。僅かな戦慄を覚えた大雅は身構え、睨みをきかせた。

「お前、なんなんだ?」

 しかし彼女は威嚇をものともしない。指を組み、顎を乗せて支える愛らしい仕草は余裕綽々としていた。

「なんでもいいじゃん。あたしはそれが欲しい。くれるなら願いを叶えてあげる。あなたは叶えたい願いがある。違う?」
「遊園地で量販されてた安いストラップだぞ」
「価値も意味も人それぞれなの。あなたが安いそれを、いつまでも外さないように」
「……」
「自分の感情を後回しにしてでも、守りたいものがあるんじゃないの?」

 図星を突かれ閉口した。千円もしないチープなストラップを外さなかったのは、単純に諒太と揃いだからだ。
 願いが叶うとは思ってもいないし、祈ってもいない。大切にしていたのは、二人で出かけた日の他愛ない思い出だった。

「……いいよ。お前にやる」

 取り出した携帯からストラップを外し、女に近づいて差し出す。透き通った青い石は買った当初よりくすんでいるが、欠けも割れもせず先端で揺らめいた。

「だから、俺の願い叶えてくれよ」
「もちろん。願いごとは何?」

 頭巾とマスクの間から大雅を見上げる女は、諒太とよく似たくっきり二重だった。置き去りにしてきた幼馴染を思い、胸が痛む。
 諒太を困らせるものから守ってやりたくて必死だった。身を挺してでも彼のヒーローで居続けたかった。幼心に芽生えたその使命感は今も、そしてこの先も変わらない。
 だから大雅の願いは、困難な道へ誘ってしまった大雅自身から諒太を守ることだった。

「やり直したい」
「何を? あなた達を兄弟にしてしまう二人を出会わないように? この街にくるきっかけになった親の離婚を止める? それとも……好きにならないようにする?」

 見えはしないが、ニヤついている女へ笑いかける。まるで傍で全て見てきたかのような口ぶりには、気味悪さを超えて不思議な魅力を感じた。人智を超えた能力を持っているかもしれない存在を前に、ちっぽけな人間である大雅は期待を抱く。
 人生至上最悪の他力本願に縋ってでも、諒太には幸せになってほしかった。

「あいつと、ただの幼馴染として生きたい。あの日の告白を、なかったことにしたい」

 女は頷きもせず、青い石を手の平で受けた。
 すると急激に耐えがたい眠気に襲われ、大雅は崩れ落ちるように地面へ膝をつく。

「なん、っ……は……?」
「大丈夫だよ、すぐに……気がつくから」

 そして今にも泣き出しそうな女の声へ反応できないまま、目を閉じた。


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