「いい子で待っていろ。僕が帰宅できなくても、夜遊びはするなよ」
「子どもじゃないんだからさ……気をつけて行ってらっしゃい」
「ああ、行ってきます」

 颯爽と出勤する背中を見送って、玄関の鍵を閉める。間宮はそれから、気が抜けたように廊下へ崩れ落ちた。

「うあー」

 三年前の誤解と蟠りが解けた夜以降、佐古は日に最低でも二度ほど唇を奪っていくようになった。主に出勤前と寝る前という、まるで新婚夫婦のような時間帯がこっ恥ずかしく、その度に胸中を撹拌されている気になる。
 今は言わばお試し期間のようなものらしいのだが、本当に「もう離さないつもりで口説く」を実行されている間宮は、すっかり彼の傍に安らぎと幸福を感じていた。

「掃除しよ……」

 火照りすぎてほんのりと発汗する額を拭い、よろめきながら立ち上がる。
 昨夜締め切りの近い仕事を納品し終えたばかりの間宮は、今日を掃除に費やすのだと決めていた。天気がいいと布団を干したくなる癖を、祖母には「いつでもお嫁に行けるわね」と、よくからかわれたことを憶えている。
 祖母は細かいことを気にしないタイプで、「身体と心が怪我をしない悪さなら今の内にやっちゃいなさい」と言っては、大層な悪ガキだったらしい亡き祖父の武勇伝を面白可笑しく聞かせてくれる大らかな人だった。

 そんな祖母が目を吊り上げて怒ったところを見たのは、後にも先にも一度きり。
 小学生時代、間宮は母とその夫の三人で暮らしていた時期があったが、母は週末になると愛人の元へ通う二重生活を送っていた。間宮は母にねだられるまま、愛人を「お父さん」と呼んでいた。
 祖母はその事実を知り、怒り狂ったのだ。
 大喧嘩の末に母は全てを放って出て行ったが、祖母は間宮の手を握って何度も謝った。気丈な祖母が流した涙には、孫、そして欺かれている二人の男へ向けた心からの懺悔が混ざっていたように思う。

 何気なく幼き日を振り返りながら、掃除機を引っ張り出していた間宮は苦笑した。
週末だけの「お父さん」は、今どうしているだろうか。いつも朗らかに笑んでいる男とお茶目な老父は二人暮らしで、間宮をとても可愛がってくれた。思い出すと、元気でいるのかと家を訪ねたくなってくる。

「……ん?」

 不意に、男の家へ向かう道中の車内で見た、高速道路の標識を思い出した。
 当時からあまり勉強が得意な方ではなかったが、自分の住む県の主だった市町村くらいは把握している。そこは遠いが同県だった。
 金曜の夕方五時頃に家を出て、到着するのは毎週見ているアニメの放送開始時刻から数分前。約二時間の道程は、いつも眠っていたはずだ。

 ――風邪のひき始めに似た悪寒が、背筋を駆け抜ける。弾かれたようにPCバッグを漁って訴訟関連のファイルを取り出し、中身を床へぶちまけた。
 訴状を拾い上げ、一枚目に綴られた原告男性の名と住所を繰り返し読む。「田沼」という名前はピンとこないが、住所地は思い描いた通りだ。それはつまり間宮を訴えた田沼が、記憶の中で笑う男である可能性を示していた。

「嘘だろ……」

 今の今まで思い出さなかったのが不思議なほど、あやふやだった記憶が鮮烈な色形をまとって前頭葉を陣取る。見知らぬ人物が起こした理不尽な訴訟だと決めつけていた間宮は、原告が誰かなど考えもしなかったのだ。
 母と男女の関係だったあの男なら、金銭の貸し借りが行われていたとしても不思議ではない。間宮を我が子のように可愛がったのは、母と連れ添うつもりだったからだ。

「じゃあ何……あながち、偽造じゃない?」

 呟いた瞬間、訴状が恨みと悪意の塊に見え、突きつけられた罪悪感が息を乱す。子としての責任は捨てたつもりだったのに、まだ足元にまとわりついていたのだろう。
 しかし狼狽えている場合ではない。原告と、脳裏に浮かぶ男が本当に同一人物か、自分の目で確認しなければいけない。
 間宮は住所が記載された紙を握り、携帯と財布を持って転がるように家を出る。
行かなければ。会わなければ――頭の中には、それしかなかった。


 動揺して電車に乗り間違えるトラブルはあったが、なんとか夕方頃には目的地へ辿りつくことができた。
 山の向こうに夕陽が沈みかけていて、紫の複雑な濃淡を主体とした冬空のグラデーションは美しい。見上げていると、この景色をクレヨンで描いたことと、あの男がいたく褒めてくれたことを思い出した。

 外灯が少なく、やたらに薄暗い中でも目前の民家は明瞭に視界へ飛びこんでくる。軽トラックが一台通れる程度の小道を挟み、前方が母屋で後方がガレージ兼、男の部屋である離れだ。周辺には広々とした田畑が並び、隣家はそれを二面挟んだ畦道沿い。懐かしい光景を前にして、ただ立ち尽くした。

「そっか……怒ってるんだ」

 優しいだけが取り柄のような男は、どんな恨みを募らせていたのだろう。考えたところでわかるはずもない。一人を想い続けた挙句に憎んだ経験が間宮にはないからだ。


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