砂利を踏みしめる足音が、背後へ近づいてくる。胃の辺りがすう、と温度を失う感覚は、判決を待つ罪人のようだと思った。

「……うちに何か?」

 絶望的な気分で声の主を振り返る。そこにはくすんだ灰色の作業服に身を包み、記憶の中より老けたお父さん――田沼がいた。

「智樹……」

 垂れ気味の一重瞼を見開いた田沼は唖然としている。当然、死んだ恋人の息子が単身で訪ねて来るとは思っていなかっただろう。
 間宮自身、原告男性と顔を合わせる日が来るなどと想像もしていなかった。ましてやそれが、一時は仮初の父だった男だとも。

「……ご無沙汰してます」
「どうしてここに?」

 間宮が口を噤むと男は目を逸らし、顎をしゃくって母屋を示した。

「入りなさい」

 言ったきり、彼は足早に玄関へ向かう。後に引けない間宮は、なんの計画もなくその背を追った。
 玄関をくぐり、灯った明かりに誘われて左手の居間へ足を踏み入れる。作業服の上着をコタツの上に放った田沼は、散らかった二間続きの奥にある仏壇前へ腰を下ろした。
 間宮は男が手を合わせる背後で、鴨居を見上げ物悲しさを味わう。

「おじいちゃん、亡くなったんだ」
「五年前だよ。最期まで、沙也加と仲良くしろよと心配して逝った」
「俺も……手を合わせていい?」

 朗らかな笑みの遺影を見上げる間宮へ、振り返った田沼は「座って」と畳を指した。無を装って感情を宿さない表情は、故人を悼む行動すら認めてはくれない。
 逆らえず正座すると、男は口火を切った。

「もう一度訊くよ。何をしにここへ?」
「……俺、知らない人に訴えられたと思ってたんだ。でも今日……田沼さんを思い出して、同一人物か確かめなきゃいけないって……」
「確かめてどうなるのかな。訴訟を取り下げてほしいって?」
「そ、そんなつもりは……っ」
「ないなら余計、来る理由がわからないな」

 田沼の声は微かに震えて憔悴しているのに、奥底では怒りが煮えたぎっているようだった。

「馬鹿だね。俺はお前が苦しめばいいと思って訴えたんだよ」
「……俺……?」
「手の届かない場所に逝った人は、生きてる人のために苦しんでくれないだろう?」

 彼が恋人に向けるべき憎しみは熾烈さをまとい、真っ直ぐ間宮へと放たれていた。
 初めて人からぶつけられる凄まじい悪意は、肌を粟立たせて身体が強張る。理不尽な主張には憤りを感じるのに、怒りが言葉にならない。男の考え方を理解できない間宮は誤魔化しようもなく怯え、見えている景色が違うような正体不明の気持ち悪さを感じていた。身を引く仕草を見つめていた田沼は、間宮の感情を敏感に察知して顔の左半分を歪ませる。

「怖がっているのは振り? あざといのは、親譲り、かな?」

 静かに立ち上がった男へ、千切れそうなほど首を横に振った。
 記憶の中では誰より優しかった男が、目を見開いて口元に無理な笑みを作っている。内に秘められている怒気は相当なもので、異様に静まり返った和室には男の荒い呼吸音が響き、突けば爆発しそうなほど危うい。

「俺は沙也加に、人生を全部捧げようと思っていたよ。なのに死んだ? 男と喧嘩して自殺? 俺に『早く結婚しようね』と言った口で薬を一瓶飲んだって? ……ははッ」

 断続的な乾いた笑い声は、男が壊れたのかと錯覚するほど不安定だ。しかしそれも唐突になりを潜め、田沼は深く息を吸う。

「……っふざけるな! 人の人生を滅茶苦茶にしておいて、逃げられると思ってるのか!」

 怒号が古い一軒家に響き渡った。
 畳を軋ませ足を踏み出した田沼は、本能的に後退する間宮を似合わない表情で嘲る。にじり下がっても一歩ずつ追い詰められ、とうとう襖に正座した爪先がぶつかった。

「あの……っ田沼さん」
「わかるだろ? 三年も探し回って、死んだって知らされた気持ちが」

 間宮には愛情と人生を捧げ続けた男の心が、痩せ衰えているように見えた。安っぽい憐れみの感情は判断力を鈍らせる。

 節くれ立って汚れた作業員の手が、間宮の胸倉へ一直線に伸びた。そこを掴んで引かれると気道が狭まり、咄嗟に手首を握って抵抗するも力の差は歴然だった。

「……ああ、わかるはずないか。お父さんって呼んだくせに、忘れていたんだもんな」
「や、めて」
「いいよなあ、幸せそうで」

 嫌な予感という陳腐な表現では足りないくらいに、第六感が「逃げろ」と警鐘を鳴らす。
 だが膝立ちのままもがく間宮を弄ぶように、男は胸倉を掴み直して顔を近づけた。

「お前、今は担当弁護士と暮らしてるんだね」

 この場で出るはずのない話題が間宮に衝撃を与え、暴れることを忘れさせる。
 狼狽を知った男は薄く微笑んでいた。

「その前は看護師の女だった。……沙也加と同じで、とんだ尻軽だ」
「なんで……? まさか、調べた……?」

 思えば田沼は、間宮を見て一言目に名前を呼んだ。いくら母の面影があるにしても、十年以上会わずにいた人間の顔と名前が瞬時に一致するとは思えない。信じ難い推測は、男の笑みを目にして瞬く間に確信へ変わった。

「どうして、そこまで……」
「俺には何も残らなかったのに、お前だけが幸せな顔をしてるなんて不公平じゃないか」

 計り知れない憎しみで開ききった男の瞳孔は、間宮を映して黒々と染まっていく。正気を感じられない顔つきが、至近距離で優しさという名の仮面を被った。

「沙也加の息子に産まれてよかったね。その顔があれば、取り入るのも簡単だ」
「……そんなこと、してない」
「嘘吐くなよ。あの弁護士も可哀想に。男なんかにたぶらかされて、手を出して、お先真っ暗だ。すぐ不幸になる」
「違う……」
「何がどう違うんだ、言ってみろよ!」
「……ッ」

 咆哮に似た一喝に続き、左頬へ男の拳がぶつかった。表現しがたい音の後、頭全体が揺らぐような眩暈に襲われる。


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