佐古の端整な顔が近づいて、傾いた鼻先が優しく頬を撫でる。間宮はぼやけるほど間近にある、男の閉じた目元へ焦点を合わせた。
 半開きだった唇を塞がれて数秒、瞼を開けた佐古は顔を離す。
 唐突なキスは胸中をそれはそれは散らかしてくれたが、間宮は冷静に首を捻った。

「三カ月経ってからじゃなかった?」
「もう三年経った」

 心なしか男の目尻が赤らんでいく。間宮は些細な変化を見届け、自分の唇に触れた。

「……え?」

 そう言えば彼はさっき、「今も君が好きだ」と言った気がする。聞き間違えでなければ、三年経った今も未練がある、とも。

「……春馬さんが、俺のこと好き?」
「ああ、君を忘れたことはない」

 独り言を肯定され、間宮は冷静さを捨てた。
 全身の血が集合したのかと思うほど顔が火照り、頭がクラクラする。心臓は異常な大音量を立てて動き、新たな熱を顔へ送っては羞恥の渦へ誘った。

「なっ、う、や、でも俺は、っ……」

 唇に男の人差し指が添えられる。同時に自分の唇にも指を当てた佐古は、静かに、というジェスチャー一つで間宮を黙らせた。

「君は……今も僕のことが好きだろう?」

 不遜な問いは実に高圧的であるのに、間宮は首を横に振ることができない。すると男は先ほどまでのしおらしさが嘘のように、したり顔で口角を上げた。

「君への好意が壊れないことを証明できれば、君は離れていかない。そうだな?」
「うん、……ん?」
「なら話は早い。理解した」

 男は満足そうに間宮を抱き寄せ、腕の中に閉じこめた。目を白黒させて現状把握に勤しむも、まるで隠すように包まれると息をするのが精一杯だ。間宮の動揺の程度は並外れているというのに、佐古は鼻先を間宮の髪に埋めて幸せそうに囁く。

「僕は何十年経っても君を好きでいる自信がある。再会できた今を逃す手はない」
「……っま、待って春馬さん、落ち着こう」
「落ち着いている。もうたくさんなんだ、何もせず後悔するのは」

 耳元に深い溜め息が落ちる。湿り気がゾクリと背を粟立たせるから、強く目を閉じた。

「あんな思いは二度と味わいたくない。だから僕は、もう君を離さないつもりで口説く」

 身体を離した佐古は、唖然とする間宮の手を取る。そして勝手に小指同士を絡め、上下に二度揺らした。

「どうしても信じられなければ、また僕を捨てていい」
「え……」
「何度でも追えばいいだけだ。ただ、もう黙って消えるのはやめてくれ」

 佐古は「それと」と前置き、拘束力のない子どもじみた約束の儀式を解く。

「暫くはここにいろ。家は探さなくていい。今、君を一人にしたくない」

 声色は一本調子なのに、間宮には彼の抱く不安や心配がひしひしと伝わってきた。怒涛の勢いで本音をぶつけられて混乱していた頭も、徐々に冷静さを取り戻し始める。
 すると「空き部屋を整えるか」、「ソファで寝かせるのは止めだ」などと、ブツブツ考えこんでいる男の真剣さが可笑しくて堪らなくなった。

「はは……っ、変な人だね」
「そうか?」
「こんな奴を好きだって言うのも、家に置こうとするのも変だよ。元カノの反応が普通」

 解けた誤解への喜びや、開き直った佐古への戸惑いを越えて感心すると、男は柔らかく笑んだ。きっとカップの底で溶けずに残った砂糖でも、彼の笑みには甘さで勝てない。

「馬鹿にするな。君を追い出した恋人とは、想いのベクトルも年季も段違いだ」

 ――翌朝、間宮は佐古と共に食卓を囲んだ。
 三年ぶりに焼いた佐古好みの少し甘い玉子焼きを、男は「やはりこれが一番うまい」と言って平らげた。
 出勤前の一時間、延々と話して初めて知ったのは、佐古が玉子嫌いであることと、間宮の焼いたものなら口にできることだった。


 すぐ解消するはずだった居候生活は年を跨ぎ、そろそろ二カ月が経とうとしている。
 再来週には第二回口頭弁論を迎えるが、佐古からの報告では「問題ない」らしい。多分に疑問の残る説明ではあるものの、佐古が言うなら間違いない。
 それより目下、間宮の悩みは別にあった。

「あ、ちょっと待って」

 真冬の澄んだ空気が、五階から見渡せる景色を普段よりクリアにしてくれた朝のこと。
 キッチンカウンターに置かれたままのランチバッグを見つけた間宮は、それを手に玄関で靴を履く佐古を追いかけた。

「忘れてるよ。いらない?」
「いる。すまない」
「夜の分も入ってるから」
「いつも助かる」

 ランチバッグの中を覗きこんだ男は、ビジネスバッグと共にそれを左手に引っかける。
 彼は県外の地裁で仕事があるため、恐らく今夜は帰って来られないそうだ。
 意外と好き嫌いの多い子ども舌な男は、外食すると肉しか食べない。一方、育ての親である祖母に家事を叩きこまれている間宮は栄養バランスに煩く、佐古の食事管理に燃えている。その結果が弁当なのだが、さすがに翌日の分までは持たせられず口惜しい。
 恐らく朝はジャンクフードで済ませるだろうから、帰宅後はたんまり野菜を食べさせてやろうと画策していると名前を呼ばれた。

「智樹」

 返事をする前に唇へキスが降る。触れ合わせるだけの稚拙な行為は一秒にも満たない。
 額がコツンと合わさると、視界が満足げな男の微笑みで埋め尽くされた。


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