15


 数カ月ぶりのエントランスで慣れたようにオートロックを解除した間宮は、エレベーターを待つ時間を惜しんで階段を駆け上がった。
 だが自宅仕事のインドア生活をしている間宮にはキツく、見慣れた部屋の前で膝に手をついて上がりきった息を整える。
 佐古の声すら聞かずに過ごしたブランクは短くないが、緊張も、気まずさも照れくささもなかった。ただ顔が見たい。抱きしめたい。確固たる想いはシンプルで混じり気がなく、インターフォンを押す行為も迷わなかった。

 ――すると、間髪入れずに扉が開く。隙間から顔を覗かせたのは、帰宅後間もないのかスーツ姿の佐古だった。

「……」
「え……」

 ドアフォン越しの会話を想定していた間宮は、さすがに間抜けな顔を晒す。いつもはそれを馬鹿にする佐古も、この度は似た表情で間宮を見つめていた。
 双方共が頭を整理するのに消費した時間は、たったの数秒。
 動いたのは同じタイミングだった。

「智樹」

 呼びかけと同時に手を伸ばすと、佐古はその肘を掴み玄関内へ引き入れた。
 背後で扉が閉まる。無言のまま抱き合うと、真っ白になった脳内にはおびただしい量の愛しさが分泌された。押し潰すような男の力加減さえ、嬉しくて堪らない。

「ただいま、春馬さん」
「遅い。……お帰り」

 短い呟きが耳朶をくすぐるだけで、未だかつてないほどの幸福感が込み上げる。久方ぶりに聞いた声も、感じた体温も、嗅いだ匂いも、思い出とは比べものにならないほど胸を締めつけた。

「ずるいよ。合鍵とか反則だから。我慢できなくて来ちゃったじゃん」
「文句を言いにか」
「そうだよ。鍵は二度と返さないって」

 カードキーの角が食いこむほど握り締めた拳で男の背を打つと、佐古はより強く間宮を抱き締める。肋骨ごと肺を圧迫する抱擁は苦しすぎてまともに息も吸えないが、抵抗する気にはならなかった。

「この鍵も、春馬さんも、もう俺のだから。他の人にはちょびっとも、あげないから」
「ああ、そうしろ」
「それと、予定とはかなり違うんだけど」

 離れたがらない男をどうにか押し返し、ポケットから白い箱を取り出す。差し出すと目を丸める男が、妙に可愛く見えた。

「これ。俺の決意」

 受け取った佐古が顔中に不満を滲ませる。
 彼の考えていることが手に取るようにわかる間宮は、「開けてくんないの」と促して照れを笑みに混ぜた。
 渋々と言った様子で、佐古が箱を開ける。
 本当は嬉しいのを必死で隠しているのか、整った顔面が可哀想なほど複雑に歪んだ。

「君の方がずっと卑怯だ。これは僕が用意したかった」
「はは……っ、やったもん勝ちでしょ。もらってくれる?」

 箱の中を睨む佐古の視界には、間宮の左手薬指に存在するシルバーリングと寸分違わず同じものが映っている。
 本当は月給の三カ月分をつぎこんで用意したかったが、如何せん佐古から送りつけられた催促が強烈すぎた。ここへ来る前に急遽購入したせいで間宮のサイズしかなかったが、佐古の分は後日調整しに行けばいい。
 要は今の間宮が示せる、精一杯の愛情が伝わればいいのだ。
 男は不機嫌そうに指輪を見つめていたが、やがて打って変わったように目尻を垂れた。

「当然だ。返せと言われても返さない。これも、君も、君の人生も」
「うん」
「催促してすまなかった。人生最後の一人暮らしは満足できたか」
「できたよ。ちょうど今日……初めて母さんの墓参りをしてきたんだ。今度、大事な人を連れて来るって報告しといた」
「気に入られるように努力しよう」

 言いながら箱ごと指輪を差し出してくるから、間宮はそのシルバーを佐古の左手薬指へ通す。少し緩いが、幸せそうな顔を見るとどうでもよくなった。
 男は大事そうに間宮を抱き寄せる。目を合わせると唇に触れるだけのキスが落ち、心地よさで口元が弛んだ。
 すると安心したからなのか、身体が場にそぐわない反応を示す。驚く間宮は慌てて佐古の肩を押した。

「あー、ごめん、一旦離れて」
「何故」
「いや俺ちょっと勃っちゃってるから。今そういう空気じゃないし、っうわ!」

 白状した途端、佐古の腕が間宮の腰と尻の下を支え、ぐっと持ち上げた。さすがの間宮も泡を食うが、何がしたいのか察して爪先を振り、靴を落とす。
 革靴を脱ぐ男の肩にしがみつく間宮は、部屋の中へ運ばれながら小声でねだった。

「優しくしてよ。初めてだから」
「馬鹿な。男性経験がないとでも?」
「普通にないよ。男の人と付き合ったのは春馬さんだけだし。後……好きな人とも」

 佐古が真っ直ぐに向かったのは読み通り寝室だった。思いの外乱暴にシーツの海へ投げ飛ばされ、吹き出して笑ってしまう。

「すごい雑……春馬さん、ベッドの中だと優しくない人?」
「知らん」

 スーツの上着を脱ぎ捨てた佐古は、既に目をギラつかせている。間宮は噛みつかれそうな不安感に身を竦ませるが、期待がそれを上回った。
 ベッドに膝で乗り上げた佐古が、間宮の肩を押して握ったままの合鍵を床へ放る。されるがまま転がれば、男が厳しい表情で眉を寄せた。

「僕は、君だけだ」
「うん。ん?」
「好きになったのも、抱きたいと思ったのも、実際に抱くのも」

 淡々とした暴露を終え、間宮の服に手をかける。衝撃の事実に固まっていた間宮は、ベルトを外しにかかる男の顔を凝視した。

「うっそ……そのスペックで童貞ってこと?」
「こう言うと君に悪いが、僕は余程好きでなければ他人の性器を触ろうと思えない」
「あ、春馬さんらしい……どうしよう、俺達初めて同士だよ。できるかな……」

 予定外の困惑を覚える間宮だったが、佐古は「問題ない」と短く言う。


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