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 男は大きく息を吐き出し、間宮の膝が畳から浮くほど強く引き寄せた。

「お前は沙也加と同じだね。誰も幸せにできないくせに、誰かに寄生しないと生きていけない。流れてる血は正直だ」
「違う……っ」
「ああ……その泣きそうな顔も瓜二つだ。俺が何度も騙された、金を無心しにくるときの沙也加だ。まるで生き写しだね、智樹」

 ――意図的に忘れようとしていた過去が、堰を切って溢れ出した。
 小学校の高学年になった頃、間宮を「蛙の子は蛙だよ」と憐れんだのは数人目の父だ。帰ってこなくなった妻を待ち続けた男は、疲れ切った様子で自身も家を出て行った。
 一人きりの部屋で、間宮は辞書を広げて言われた意味を調べ、見つけて泣いた。数日後に学校からの連絡を受けた祖母が電車を乗り継いで駆けつけてくれるまで、空腹と虚しさの中、あまりの惨めさにひたすら泣いた。
幸せを追い求めて生きた母が得られたのは、愛した男からの憎悪と失望だった。裏切りと欺瞞に嘘を散らした母はもう、とうの昔に真っ当な人生を諦めていたのだろう。短い付き合いでも、それくらいはわかる。
 何故なら、母と間宮は親子だったからだ。

「……そうだね、俺は母さんに似てる」

 そう思ったからこそ同じ末路を辿らないよう、人を好きになることを諦めた。誰も傷つけず、誰にも恨まれることなくひっそりと生が終わる日を待つつもりだった。
 だがそんな間宮を知ってなお、傍に引き留めてくれる人がいる。惜しみない愛情で、間宮は間宮でしかないのだと教えてくれる人が、ちゃんといたのだ。
 真っ暗になりかけた視界は、明るさを取り戻す。恐れを一蹴し、力強く首を振った。

「でも俺は母さんじゃないんだよ、田沼さん」

 彼は何十年後も傍にいる。二十三年かけて思い知った愛情の脆さより、脆いそれを育てていく日々の愛しさを、彼を、今の間宮は信じることができた。

「俺をいくら責めても、母さんの代わりに償ったりはできないんだ。憎み合うのはやめようよ……」

 いつしか暴走する男への怯えが消え去ると、ただ気の毒に感じた。今からでも腹を割って話し合えば、この再会を忌々しいものにしないで済むのではないかと考える。捨て置かれた者同士、分かち合える感情があるはずだ。
 それでも苛々と目を眇める田沼は、退く気はないとばかりに嘲笑を浮かべる。

「馬鹿らしい……沙也加の息子のくせに、自分はあの男と幸せに暮らしていけるとでも?」
「思ってるから一緒にいるんだ」
「おままごとみたいな夢だね。可哀想に……沙也加は何も教えてくれなかったのかい」

 田沼はギリギリと拳に力をこめた。鈍い痛みと共に喉が圧迫され、間宮は酸素を求めて喘ぐ。

「離し……っぅ、く」
「俺達はお前が小学生になった頃からの付き合いなんだ。ずっと彼女一筋だった。後悔なんて考えたこともなかった。それがどうだ、今はこの有り様」
「……っれは、あんたと母さんの問題だろ!」
「自分達は生涯同じ気持ちでいられるとでも言いたいのかな。本当に? 絶対? 何があっても? 本気で自分達なら大丈夫だって?」
「あんた達と一緒にするな……っ」
「お前は子どもだ。なんにもわかってない。いつまでも結婚しないで男同士で暮らすお前達を世間は白い目で見るよ。あの男の両親はお前を恨むよ。妻にも母にもなれないお前は、あの男に何も残してやれない」

 無情な現実が羅列され、間宮は勢いに任せて「ある」と叫ぶための勇気を失う。一度躊躇し、口ごもるともう駄目だった。
 長い生涯を佐古と共に生きたい。何があっても大丈夫だと思いたい。いつまでも愛し愛される関係でありたいと、切に願っている。

 しかし、いくら二人の意思を束ねても解決できない問題がある。間宮が男である以上どうにもならないそれらは、できたばかりのまだ柔い覚悟の隙間を縫って心へ突き刺さった。

「そんな、ことは……だって、あの人は」
「今はよくても、いつか憎まれる。幸せになれないに決まってる。男同士なんて気持ち悪い関係が続くはずない。可哀想な智樹。お前は沙也加の息子だよ。愛されずに育ったお前が、人を愛せるはずないんだ」

 心の伴わない同情は間宮を傷つける。激しい脱力感を覚え、男を引き剥がそうと足掻いていた手は身体の横へストンと落ちた。
 語られた未来は間宮の不安を餌にじわじわと現実味を帯び、やがて希望を打ち消す。

「……このままじゃ、駄目になるってこと?」

 田沼は満足げに口角を上げ、ようやっと胸倉を離す。座りこんだ間宮をせせら笑う姿は、純粋に道連れを喜んでいた。

「つらい思いをしたくないだろう。嫌われるのは怖いだろう。誰かの機嫌を窺って生きていくのは、とても疲れるだろう」

 畳に膝をついた田沼は、偽りの優しさでそっと手を握ってきた。幼い頃もこうして手を繋ぎ、裏の田畑で一緒に虫を探してくれた男は、たった一人の女を中心に生き、そして壊れてしまったのだろう。

「一人でいればいいんだ。そうしたら誰にも迷惑をかけない。彼を大切に思うのなら、幸せにしたいのなら、お前の存在は不要だよ」

 目を伏せる間宮の頭を、男は慈しむように撫でた。もう喉を圧迫する手はないのに、何故か息苦しさが治まらない。

 こんなときなのに思い出したのは、機嫌のいいときだけ「大好きだよ」と抱きしめてくれた母の体温と、落とすように微笑む佐古の横顔だった。


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