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「ついさっきだよ。行き違いになんなくてよかった」

 差し出された傘を受け取る千寿は、彼の言葉が気を遣わせないための嘘であるのを察していた。
 弦は千寿の終業定時を知っている。行き違いになる可能性があるのなら、連絡くらい入れるはずだ。よって定時前には待機していたのだろうと推測するのは容易い。
 しかし殊勝な彼を窘めることはしたくなくて、礼を言って傘を差し、遠慮する弦から買い物袋を取り上げた。

「ちょっと上司に捕まっとってなあ、遅なってごめん」
「ううん、俺が勝手に来ただけだし……」
「電話してったらええのに」
「お仕事の邪魔になるじゃん」
「ならへんわ。なってもかまへん。わざわざ届けに来てくれて嬉しいのに」
「……ホント?」

 心なしか背中を丸めた弦は、千寿の反応を窺っている。今は亡き愛猫が初めて手から餌を食べるとき、いいのか、駄目なのか、と不安そうだった姿に重なって、キュンどころかギュウンッと胸部でおかしな音が響いた。

「あったり前やん。持ってってくれてありがとうな。助かった」
「……っ、うん、ならよかった。怒られるかなってちょっと思ってて……」
「はー? ないない、さっきまで気い滅入っとったけど、弦の顔見たら吹き飛んだもん」
「……へへ」

 どうやら千寿が喜ぶことが嬉しいらしく、弦の不安げな表情は満面の笑みへ変わっていく。甘めの目元は糸ほどに細められ、緩んだ唇は少しだらしないくらいだ。整った顔立ちを穏やかに微笑させる弦も好きだけれど、このクシャクシャに崩れた笑顔は特別に可愛い。
 もっと見たい。もっと笑わせたい。
 調子づく千寿はきっと、右手にエコバッグがなければ弦の手を握っていた。

「なあ、次の日曜も丸一日バイトなん?」
「ううん、お昼までだよ」
「ほな、一緒に遊びに行こうや」

 かつてないほど脂下がった顔で言った途端、千寿の予想に反して弦はきゅっと唇を引き結ぶ。そしてすぐさま首を振った。

「俺はいいよ」
「忙しいん?」
「布団干そっかなって考えてたから、ご飯して待ってるね」

 唐突な真顔は、なんなら残念がっているようにも思える。共に出かけることを嫌がっているわけではなさそうで、千寿はその不自然さを見逃してやる気が失せた。

「嫌なん?」
「え……そうじゃないけど。っていうか、俺と出かけても千寿さんにメリットないし」
「じゃあ俺にメリットがあればデートしてくれんねんな?」

 傘を叩く煩い雨音に紛れて、弦が小さく疑問符を口にした。ポカンと口を開ける表情は年相応にあどけない。
 千寿は男の見せた素の表情を愛らしく思い、ニッと口角を上げた。

「俺の日曜のルーティーン、付き合えや」


 日曜の午後、バイト終わりの弦を車で拾った千寿はその足で競馬場へやってきた。
G1レースが開催される今週は、イベント目当ての家族連れも多く混雑している。そんな中、初めて訪れた場所に目を輝かせる弦は、あちこちに興味を引かれていた。半ば言いくるめるような形で連れては来たが、好奇心には勝てないらしい。
 好きに見学させてやりながら、庭と呼んでも差し支えないほど熟知した建物内を一通り案内し、軽食をとってから投票所へ向かう。

「もう三時半か……早よ買わな締め切られるな」
「千寿さんはどれ買うの?」
「メインレースだけやで。お前もやる?」
「俺、競馬わかんない……見ててもいい?」
「ええよ。ほな、今度は挑戦してみいな」

 さりげなく次回の約束を散らし、マークカードを取って書きこみながら頭を悩ませる。

「……そや、まだ軸馬決めてなかった……」
「どしたの?」

 手元を覗いてくる弦の顔をじっと見つめ、千寿は閃く。

「弦、好きな数字三つ言うてみ。一から十八までな」
「うん? えっと、じゃあ十六、二、七?」
「よっしゃ。今日はお前の運に頼るわ」
「そんなのでいいの?」
「ええのええの」

 数字を順にマークし、今度は自動発券機で馬券を買う。三連単の一点買いなどという当てる気のない馬券だが、タイムリミットの短さや競馬初体験の弦を思えば、これくらいわかりやすいお遊びで丁度いいだろう。

「俺なんかの運じゃ、お金もったいないよ」
「どこがやねん。俺とお前の初共同賭博やん。ワクワクするやろ?」
「賭けごとは二十歳過ぎてからじゃ……」
「買ったん俺やから問題なーい」

 不安がる弦を笑い飛ばした千寿は馬券を彼へ渡し、スタンドへ出てすぐ、右手の壁沿いで一息ついた。

「三連単やからな、気合い入れて応援せえよ」
「三連単って何?」
「馬券の順番通りにゴールしたら当たりや」

 素直に頷いた弦は「そういえば」と顔を上げ、ターフビジョンに映し出されたパドックの様子に目を向ける。

「千寿さんと初めて会った日の朝も、田辺さんに同じこと訊かれたな」
「なん?」
「好きな数字を三つ言ってみてって。十、六、四……だったかな。俺、適当すぎだよね」


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