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「ふうん……ん?」

 千寿はハッと思い出し、財布に入れたままの万馬券を取り出した。そこにある数字を確認し、信じられない思いで弦の横顔を盗み見る。
 何故、田辺は馬券の裏に住所を書いたのか。
ずっと考えていた疑問の答えに似た何かが、もう少しで尾を掴めそうだ。
 弦は田辺が、「この馬券一枚で千寿が動くことを確信していた」と言った。だが、そんな不確定要素に頭のいい田辺が全信頼を置くだろうか。
 馬券が当たらなければ、千寿はマンションに行かなかったかもしれない。行かなければ、弦は玄関前に一人で待ちぼうけだ。
 しかし現に馬券は当たり、千寿は田辺の思惑通り弦と出会った。どうしてか、田辺と馬券に踊らされている感が否めない。
 競馬は賭博だ。結果が出てみないとわからない。けれどもし、この馬券が当たる確信を田辺が持っていたのなら――。

「いや……まさかな」

 胸中に浮かぶ仮定が、肌を粟立たせたそのとき、場内にファンファーレが響き渡った。
 馬達が一斉にスタートを切り、激しく柴を蹴りながらコースを疾走していく。観客の熱気は徐々に高まり、先頭馬が最終コーナーを回ると地響きのような声援が轟いた。

「すごい、わ、わ、千寿さん見て、見て!」

 弦はいつになく声を上擦らせ、千寿の肩を叩く。先頭から十六、二、十。上位三頭の後をピッタリと追いかけるのは、七番の馬。弦の予想は、十六、二、七だ。

「んなアホな……」

 瞬きもせず見つめる先で、七番の馬がぐんぐんとスピードを上げていく。そしてその勢いは衰えることなく――三位の十番をハナ差で抜かし、ゴールした。
 十一番人気が三着に食いこんだせいで、スタンド内を盛大に外れ馬券が舞う。歓声と怒声が爆発したように混ざり、場内は騒然となった。

「マジで、当てよった……」

 呆然と呟いて弦と顔を見合わせると、彼は唇を引き結んで興奮を隠している。その表情をきっかけに高揚感が湧き起こり――千寿は弦の頭を、思い切り撫ぜまわした。

「……っやったなあ! よう当てた!」
「うん嬉しい! 馬ってすごい、めちゃくちゃカッコいい!」
「すごいのもカッコええのも弦やっちゅうねん!」
「千寿さーんっ」
「うお……っ」

 満面の笑みではしゃぐ弦が、無邪気な幼子のように抱きついてくる。男の身体はさほど身長が変わらないのにズッシリと重く、咄嗟に手摺りを掴んで踏ん張った。
 すると弦は我に返ったのか、慌てて離れてしまう。

「っあ、ごめん……」

 思い切り抱きつかれて嬉しかった千寿は苦笑し、「ええのに」と言って申し訳なさそうな男の頭を撫でた。

「もっかいドーンとハグしよか?」
「ううん……ごめんね、みっともないことして。ちょっと俺、はしゃぎすぎちゃったかも」

 それは決して悪いことではないはずなのに、彼は何故謝るのだろうか。
 千寿は訊ねるかどうか悩み、やめた。はぐらかされては意味がない。要は、それが「悪いことじゃない」と弦に教えればいいだけなのだ。

「いや? はしゃいで楽しそうな弦めっちゃ可愛いで」
「か……わいくは、ないと思うんだけど」
「えー、こんな可愛いのに? 俺の中のベストオブ可愛いやのに?」
「どしたの千寿さん……馬券当たってご機嫌だね」
「ちゃうし。お前と一緒におるんが楽しいからやし」
「え……」

 まるで狐に摘ままれたかのように驚く弦の顔が、パッと赤らんだ。顎を引き、上目遣いで千寿を見る視線は甘い。

「た……楽しい、の?」
「おう。弦はデート楽しなかった?」
「っううん、めちゃくちゃ楽しい! 本当に……」
「んまか」

 続々とスタンドを出ていく人の波を横目に、千寿は弦へ身を寄せる。仄かに火照った頬にキスしたくなる衝動を堪え、周囲の賑やかさにかき消されないよう耳元で口を開く。

「なあ、これから色んなとこ一緒に出かけよか」
「色んな……って、どこに……?」
「そやなあ」

 弦の目には、ぎこちない期待がチラつく。
 少しばかり、彼がせっせと塗り固める壁の土台を壊せた気がした千寿は、手摺りに背を預け、弦と出かけてみたい場所を指折り並べ立てた。

「まずは定番の、遊園地で絶叫系網羅やろ」
「う、うん」
「水族館のイルカショーで水ぶっかけられるやろ、動物園で小動物抱っこした弦を俺が抱っこするやろ」
「俺、結構体重あるよ……?」
「いけるいける多分。ほんで適当なルートでドライブ行ってうまいこと海に到着するやろ、行ってみたい飯屋もあるし、一緒に買い物行っても楽しそうやん。あ、そや、もうすぐ誕生日や言うとったやんな? 二十歳になったらうまい店でうまい酒教えたろ」
「……ん」
「花見は桜散ってもたから来年な。暖かなったらバーベキューもできるやん。弦はお握り係で、俺は野菜」


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