旬ものを取り入れて栄養バランスのとれた食事と、常に掃除の行き届いた部屋、そして時折見せる懐っこい笑顔で千寿を癒す弦の存在は、高級マットレスなど足元にも及ばない。同居生活は二週間が経ったが、当初感じていた不安など二十時間後には完全に消え去っていた。
 弦は千寿の意味不明な呟きに、不思議そうな顔で首を傾げる。

「何がゼロ円?」
「関東人は同じもんでも、高い金出して買いたがるらしいけどな……関西人はどんだけ値切って安く買えたかがステータスなんや……」
「そっか。じゃあ起きてご飯食べよう?」

 適当な相槌を打つ弦が、千寿の頬を突いて遊ぶ。抵抗もしないで真横に伸ばしたままの左腕を持ち上げた千寿は、今朝も一切の気怠さがないことに口を尖らせた。

「お前……また頭下ろして寝たな。朝まで枕にしてええって、昨日もあんだけ言うたのに」
「してた」
「枕買うか……」
「多分俺の頭、軽いからそう思うんだよ」
「はいはい」

 冗談めかす態度がもどかしい。
 出逢った当初と比べればかなり気を許してくれているし、傍で穏やかに笑うことも増えたけれど、彼は未だ不意に一線を引く。千寿が何かしてやりたくとも、遠慮と謙虚のオンパレードで踏みこませてくれないのだ。
 意識的にか、無意識にかは定かじゃないが、普段から意外にも距離感が近くボディタッチも多いから、人肌が嫌いなわけではないだろう。
 そこで和室の即席寝床から、ベッドへ連れこみ始めたのが先週のこと。まともな客用布団がないのだから枕も予備はなく、腕枕を提案したときは確かに目を輝かせていたくせに、頭の重みを味わえるのは寝入るまでだ。
 頭を乗せないのも、新しい枕の購入を拒否するのも気を遣っているからだとわかっている。
 こうなったら是が非でも心の距離を詰め、腕枕で寝坊する弦を見てやろう。千寿は決意を固め、むくりと起き上がった。
 テーブルには出来立ての食事が並んでおり、ベッドの足元には今日の服一式が畳んで積まれている。気の利く弦は、スーツに毎朝エチケットブラシをかけるのも忘れない。
 今朝も理想そのものな光景に感動し、「ご飯冷めちゃうよ」と優しく急かされてベッドを降りた。

 二週間前は遅刻寸前まで布団の中でのた打ち回り、栄養調整食品でカロリーを脳に与えながら家を出ていたというのに、今では支度と朝食を済ませ、珈琲のお代わりとニュースの占いコーナーまで楽しんでから出社時間を迎えている。最近肌艶がよくなったと会社でも評判なのは、全て弦のおかげだ。

「ほな、そろそろ出るわ」
「うん」

 何も言わなくても荷物を持って玄関までついてくる弦を、靴を履いてから振り返る。彼は千寿にバッグと弁当袋を渡し、ネクタイの歪みを整えてくれた。目線は弦のほうが数センチ高いが、千寿には彼が可愛い嫁にしか見えない。

「今日の予定は?」
「午前中は大学で、昼から夕方までバイト。それから買い物して帰るよ」
「なんか申し訳ないわ……たまには好きなことしいよ。おっさんの世話ばっかしとらんと」
「自分でおっさんって言うのやめようよ……どっから見ても綺麗なお兄さんだよ」

 また、それとなく話題を逸らされている。
 千寿は彼が「好きなこと」の話題を避けたのだとわかっていたが、気づかぬフリで腕を擦って見せた。

「やめえ、綺麗とか寒い」
「そう言えば今日雨降るって言ってた。傘持って行ったほうがいいよ」
「夜からやろ? 定時で帰るから大丈夫や。嵩張るし」
「あのさ……無理してない? 俺、待つの平気だよ」
「ちゃうわ。俺が人より仕事早いだけ」

 その自画自賛を撤回はしないが、健気に待つ弦がいる部屋に早く帰りたいからだ、とは、甘ったるくてさすがに言えない。顔がニヤけてしまいそうな千寿は、ドアノブに手をかけて少しだけ振り返った。

「行ってきます」
「ん、行ってらっしゃい」

 手を振る弦を抱きしめて、優しくキスを返したくなる。
 千寿は今日も本音と煩悩を腹の中に押しこめ、意気揚々と仕事へ向かった。
 ――だが定時を三十分越えた、午後六時。
ついさっきまで支部長の愚痴を聞くだけの残業をさせられていた千寿は、ビルのエントランスから到達の早まった雨雲を見上げていた。

「弦の言うこと聞いとったらよかった……」

 打ちつける雨粒はコンクリートの上で白い飛沫となり、その激しさを物語っている。自動ドアを渋々くぐり、幅の狭い庇の下でどんよりと暗いオフィス街を眺めた。

「……気い滅入る」

 千寿が靴の先から十五センチ先に待つ、濡れ鼠の未来を思って溜め息を吐いたとき。

「あ、千寿さん」
「ん?」

 声のしたほうへ顔を向けた千寿は、そこに立っている弦を見つけて目を剥く。つい「なんで」と言いかけたが、イヤホンを外して近づいてくる彼の腕には食材の入ったエコバッグと、千寿愛用の黒い傘が引っかかっている。把握材料としては十分だった。

「弦……いつからおったん」


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